#1291 クリスマスの本当の意味を考える

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

先日、私は滋賀県に参りました。そして、急がば回れの由来を教えていただいたのです。「急いでいる時ほど、安全な方法を取れ」という意味だとは知っていましたが、これが琵琶湖に由来するとは知りませんでした。昔、旅人が京都に行く際、舟で琵琶湖を横断するコースと琵琶湖の周囲をぐるりと回るコースがありました。横断する方が距離は近いんですが、比叡山から吹き降ろす風が猛烈で危険なルートでもあったのです。それで「急いでいる時ほど、陸路の遠回りを行け」というところから出てきた言葉なんだそうです。
 普段使ってる言葉ですが、その元々の意味、本当の意味については知らないままになっているってことが案外あるんですね。そしてその代表格が、私はクリスマスだと思うのです。12月に入ると日本でもいたるところにイルミネーションが飾られ、ショッピング街やレストランにはクリスマスの言葉が溢れかえります。しかし、クリスマスの本当の意味が置き去りにされているように思うのです。クリスマスとはキリストがこの世に来られたことを記念する祭りのことなのです。
 キリスト誕生の経緯について聖書はこのように語っています。

「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。

 今日は二つのポイントでキリストが到来された理由をお伝えいたしましょう。

キリストは罪人を救うために来られた

第一に、キリストは私たちを罪から救い出すために人としてこの世に来られた神であるということです。
 実は今、世界中の先進国いわゆる豊かと言われる国々の共通の悩みに、刑務所が満員状態であるということがあります。それでアメリカでは民間企業に刑務所の管理を任せる州も出てきているようです。過密状態の解消のためには、抜本的には再犯率を低くするということです。刑務所の中で受ける更正教育が実を結ぶように支援していくということですよね。そこでアメリカのある刑務所では受刑者に対して自分たちがしたことが被害者家族にどれほど恐るべき結果をもたらしていたのか、他の人の人生を破壊しているという現実を徹底的に知らせ、それに向き合い、反省を深めるようにしたんです。罪がもたらす結末の恐ろしさを知れば、罪を犯さなくなるに違いないと考えたのです。ところが追跡調査の結果、この刑務所を出所した受刑者の再犯率は他の刑務所の再犯率よりも高かったというのです。いったいどうしてこんな矛盾した結果になったんでしょう。この刑務所の受刑者がこのプログラムから受け取ったもの、それは「あなたは幸せになってはいけない。あなたには幸せになる資格はない」というメッセージであったからです。破滅的なセルフイメージは、破滅的な人生を選ばせていきます。罪悪感や自分への嫌悪感、人生への暗い疑念は人をより良く立てる力にはならないのです。
キリストは、罪人を罰するために来られませんでした。この方は罪人を愛し近寄らせ、いつくしみ引き寄せ、そして、その罪を身代わりに背負うために来られた救い主なのです。
先日、私は長野県に参りました。部屋が寒かったので、妻と一緒に買ったダウンジャケットを着込み、背中に石油ストーブを置いて暖めておりました。しばらくすると妙な臭いがするのです。そーっと背中に手をやると、なんとダウンジャケットが焦げ焼けているではありませんか。ふと部屋を見ると、まるで雪の中にいるように部屋中ダウンだらけでした。私はそれを大阪にいる妻にメールでおもしろおかしく知らせました。すると大変心配しているメールが届いたのでびっくりしたんです。あなた自身は焦げてませんかというんですね。焦げてません。しかし自分のしでかした失敗なのですが、それをやり込められると、どうしても自己防衛的になりますね。でも失敗を見る目が心配の眼差しであるとき、心は癒されていくのです。
 神は罪そのものについては憎む方です。罪を憎む聖い神です。しかし、罪人をあわれまずにはおれない恵みの神なのです。人が負っているすべての重荷、すべての罪、すべての涙の理由を何もかも背負って処分するためにこの世界に来られた方。この方こそはイエス・キリスト。あなたのための救い主なのです。

キリストは人とともにいてくださる

 第二に、キリストはいつもともにいる神となられるために、この世に人となって来られたのです。人間ということを経験なさった神なのです。筋金入りのクリスチャンであったヨハン・セバスティアン・バッハの楽譜にはいくつか特徴がありました。はじめのページの頭にJJとアルファベットの頭文字が、そして最後のページにはSDGというアルファベットの文字を書き込んでいたのです。JJというのは、ラテン語でイエス・ユバー、訳すと「イエスが助けて下さる」という信仰の祈りです。SDGとはラテン語で、ソリ・デオ・グロリア「ただ神に栄光がありますように」という賛美の祈りです。彼は誰もが認める押しも押されもせぬ音楽の天才ですが、神に喜ばれるような作品は、イエスの助けなしには作れないと考えていました。そこで彼の作曲活動は、自分の力に頼って自分の力で切り拓いていく仕事ではなかったのです。キリストと自分の共同作業による活動だったのです。しばしば筆を止め、キリストに語りかけ、キリストと会話しながらキリストとともに楽しんで喜んで、躍動しながら、交わりながら取り組んだ仕事なのです。そして、このキリストの助けで作り上げた作品を発表するとき、そこには感謝が伴っていました。「私の作品はイエスと私という私たちの作品です。主イエスが私を助けてくださったのです。どうぞ神よ、この音楽のささげものを受け取ってください」という祈りがあったのです。
 やがてルネッサンス期以降、現代に至るまで多くの音楽家、ミュージシャンが世界中に登場します。自分の才能に任せて作品を作り続けた音楽家は、やがてぶつかる行き詰まりの中で挫折したり、薬物に溺れたり、自分を死にまで追い込んでいくような人々が続出していくのです。好きでしている仕事なのに自分の力だけでやり続けていると、やがて疲れが出てくるのです。しかし、ここに自分の力だけで人生を切り拓こうとした生き方と、神とともに歩む人生の違いが表れているように思います。
 今、疲れている人は自分の力だけで生きているってことが原因ではないでしょうか。キリストは、あなたとともにあなたの人生を完成させてくださる方です。どうぞ、あなたのためにいのちを投げ出す覚悟でこの世界に到来した救い主イエス・キリストを、ご自分の救い主として迎え入れてください。心からお勧めしたいと思います。

 

使用CDジャケット
小坂 忠:インマヌエル

今日のみことば
「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
(マタイ1:21〜23)