#1282 罪人にある赦される喜び

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

 先日、明治時代の物理学者寺田寅彦さんの特集記事を読みました。そこに彼の名言がいくつか紹介されていました。その中に、健康な人には病気になる心配があるが、病人には回復するという楽しみがあると書いてありました。それを読んで私は思いました。罪人には赦されるという喜びがある。今日は、このキリストによる救いを紹介しているみことばをまず読んでみましょう。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 ここから、三つのポイントでお話しいたします。

天地万物の創造主

 第一に、聖書の語る神は天地万物を造られた創造主であるということです。ずいぶん前、私は韓国の珍島という島に行きました。珍しい島と書いて珍島っていうんですね。ここは、毎日一回とっても不思議な自然現象が起こるんです。なんと海が二つに割れて陸地と沖合にある島が一本の道でつながってしまうんです。まるで紅海を渡ったモーセたちのようです。道が海から姿を現すとみんな一斉にその道を通って島まで行くんですが、まあみんな興奮して大騒ぎなのです。ところが、この現象を目の前にしながら、見向きもしない人たちがいるんですね。それは観光客を目当てに開業しているお土産屋さんたちなんです。彼らにしてみたら毎日見ている光景なので何の新鮮味も驚きもありません。
 私はそれを見て思いました。どんなに素晴らしい光景も見慣れてしまったら何の不思議も感じなくなるんだな。私たちは朝起きるとたいてい空は青いですね。しかし、青空が十年に一回しか見られないとしたら、一回の青空にどんなに歓声を上げることでしょう。もし月が百年に一回しか見ることができず、星空が千年に一回しか現れないということであるなら、それに遭遇できた人たちはどんなに宇宙や自然界の不思議を畏敬の念を持って見ることでしょう。
 すでに亡くなられた評論家の森本哲郎さんは、サハラ砂漠を旅して旅行記を書かれました。彼は見渡す限りの砂の大地と突き抜けるような空を見上げた時、魂の底から湧きおこるその思いを抑えきれずに絶叫してこう言うんですね。「どうして自分は人間なのか。なぜ地球があるのか。なぜ宇宙はこんな姿で存在しているのか」いったい彼に何が起こったんでしょう。大自然の雄大なる姿を目の当たりにした時、何かに心打たれたんです。大自然のすごさに感動してそれをそのような姿にあらしめている何者かに叫んでいるのですが、その何者かが誰かが分からないというもどかしさが絶叫となっているんですね。その何者かをご紹介いたしましょう。創造主なる神なんです。私たち人間を生かす環境にこの宇宙を、この姿に設計した方です。この神様こそはあなたの魂の親なんです。

罪の報酬は死

 第二に、罪の報酬は死ですということです。そして罪とはいったいどういうことでしょうか。この偉大なる創造主から離れて生きることを罪っていうんですね。神から離れた生き方には三つのパターンがあります。
 第一のパターンは神なんかないという考え。無神論の考えに立って生きることです。これは神に対しては恩知らずという意味で罪なんですね。そして人はこの神を見失った結果、人生に対する恐れをも失い、結果として人生をあるいはこの世の中を生きづらいものにしてしまったのではないでしょうか。
ところで、大阪府警は交番勤務の警官が制服姿でコンビニに入って買い物をすることを認めるようになりました。さぼりと誤解される恐れがあったので制服の上からジャンバーを羽織るように指導していたんです。それが制服のままで休憩時間に買い物することが認められるようになったのはなぜでしょう。犯罪抑止が期待できるからなんです。警官が店内に出入りしていると強盗たちもおいそれと手が出せなくなるんですね。自分たちを逮捕して裁く権威があることで恐れを感じ、この恐れが犯罪を抑え込むことになる。このように期待されているんです。逆に言うなら、なぜコンビニ強盗が頻発したんでしょう。恐れるべきものが目に入らないからです。恐れるべき方を持つ社会は安定します。
 第二のパターンは神ならぬものを神とするという考えです。これを聖書は偶像崇拝と言います。これは神に対する背信行為という意味で罪なんです。なぜなら、聖書は唯一の本物の神以外の者を拝むことを罪として糾弾しているからです。まあ日本人の我々にはずいぶん窮屈な狭い考えのように感じることでしょう。しかし、決してそうではないのです。私は先日友人の結婚式に招かれました。式のクライマックスは誓約です。新郎新婦に司式者が全く同じことを尋ねます。それは、生涯この人を自分の伴侶として貞操を誓いますかということです。夫に対して彼女だけを妻として愛しなさいと約束させることは堅苦しい考えでしょうか。妻に対して彼だけを夫として愛しなさいというその誓いを聞くのは窮屈なことでしょうか。決してそうではありません。互いに絶対的忠誠を求められるのは互いの関係が人格的関係であるからです。そして人格的関係の基礎は愛と誠実にあるんですね。あなたの造り主は人格ある神なのです。したがってあなたから愛と忠誠を求める神なのです。
 第三のパターンは神ときちんと向きあわない態度です。C・S・ルイスという作家は、幼いころから虫歯に悩む人でした。少年時代彼は歯が痛むときには母親のところに行けばよいと知っていました。お母さんは痛み止めの薬を口の中に入れてくれたからです。しかし、ルイスはお母さんのところになかなか行こうとせず、ぎりぎりまで我慢していました。なぜでしょう。お母さんは次の日、歯医者まで引っ張っていくということが分かっていたからです。ルイスは当面の痛みを抑えてくれることは喜びましたが、根本的な治療は苦手で嫌だったのです。多くの人は困った時だけ神に願います。テストの前、病気の時、大仕事の直前、神に力を求めるのです。そしてそれが終わってしまうとスーッと神を忘れていくのです。目の前の問題解決で済まそうとするんですね。しかし、人生の根本問題には手を付けようとしないのです。人生の根本問題とは死と死後のさばきから救われるということなのです。

救いに関する神の宣言と呼びかけ

 第三のポイントは、この救いに関する神の宣言と呼びかけです。神は救い主イエス・キリストの死と復活によってあなたのすべての罪の刑罰を終わらせてくださったのです。どうぞこの神の下さる賜物イエス・キリストをご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思ます。

 

使用CDジャケット
松本優香:十字架のかげに

今日のみことば
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)