ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、私は『宇宙の人間原理』という本を読みました。ひとことで言うと、宇宙というのは、人間が誕生するように何者かによって絶妙に調整されているんだ、という考えなんです。たとえば、太陽は毎秒毎秒、すさまじいエネルギーを放出していますね。この太陽のエネルギーを生み出しているのは重力です。太陽は自ら、重力によって自らの中心に向かって圧力をかけ、核融合反応を起こして、その結果として莫大な熱エネルギー、光エネルギーを放射しています。この太陽が捨てたエネルギーを使って、地球上の生命体は生きているんですね。
ところで、この宇宙には太陽のような莫大なエネルギーを外に捨てている星が何百億もあるんです。もし、この宇宙が閉じてしまっていて、大きさが変わらなかったなら、それらの星々が捨ててきたエネルギーがどんどん溜まって充満し、宇宙全体が何千℃にもなり、すべての物質は壊れてガス状になって落ち着く以外にはないのです。ところが、実際にはそういうふうにならないのは、宇宙が膨張していて、エネルギーが捨てられる場所を作り出しているからなんです。
このエネルギーを生み出す重力と、その捨て場所を作り出している宇宙の膨張率が絶妙なバランスで保たれているので、私たちは生きることができているって言うんですね。宇宙は人が生きるために何者かによって調整されているように見えて仕方がない、というのがこの本の主旨でした。
さて、聖書は、この全宇宙を秩序あるものにお造りになった方を紹介しています。それは、神です。この宇宙の第一原因者なる方を、聖書は「神」とか、「創造主」と呼んでいるのです。そして、神は、宇宙の中では砂粒のように小さな地球に住む、また小さなちいさな私たち一人ひとりを深くふかく愛しておられる、と語るのです。今日は、この神が私たちを愛して与えてくださったキリストのみわざを考えてみましょう。
聖書に、このように書いてあります。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
さて、ここから三つのポイントで考えたいと思います。
キリストは人として世に来た神の子
第一に、キリストは人としてこの世に来られた神の御子であるということです。
天皇陛下と美智子皇后が東日本大震災のセレモニー行事にご出席なさったときのことです。普段はお洋服でご出席なさることの多かった美智子皇后が着物を希望された、という記事がありました。理由は、術後の天皇陛下が万一倒れられるようなことがあった際に、すかさずお支えするためだというのです。洋服だとハイヒールを履くことになりますので、それでは支えきれないかもしれません。しかし、和服であるなら草履ですね。もしものとき、踏ん張ることができる。そうお考えになられて着物を強く望まれた、とあったのです。ご自身のファッションよりも、一番大切な方をお支えするための装いを選ばれたというのです。
神のひとり子はなぜ神のあり方を捨てて、人間の体という装いを身にまとってこの世に来られたのでしょう。罪人を支え、励まし、救うためです。自ら人となることで、人の弱さを実感し、人であるあなたをしっかりととらえ、支え、守るために、この方は肉体をもってこの世に来てくださったのです。
キリストは十字架で死ぬためにこの世に来られた
第二に、キリストは十字架の死を引き受けるためにこの世に来られたということです。人間にとって死は、避けることができないものですね。しかし、罪なきキリストにとって、死は、そもそも無関係のものです。キリストは、死なない方です。死の原因である罪が無い神の子であるからです。そのキリストが、十字架にかかってくださいました。それは、人間のすべての罪を引き受け、人の身代わりとして神様のさばきを受けるためであったと聖書は語るのです。
神はキリストを復活させられた
第三に、神はこのキリストを死からよみがえらせ、高く上げ、救い主であることを明らかにされたのです。一度は私たちの罪を負って死んでくださったキリストが、死後三日目に死を突き破って復活してくださったのです。私たちの経験則では、死んだ人間が二度と死なない体で復活して天に昇った、などということはありえないことですね。いや、復活に限らず、キリストがなさったという数々の奇跡もありえないことだと論じる人々が特にこの日本の中では一般的だと思います。しかし、オックスフォード大学の数学者であり、またクリスチャンでもあるジョン・レノックスという人は、次のように語っています。「奇跡は、閉鎖系のシステムの外側から膨大なエネルギーをつぎ込んだために起きる事象である」わかりやすく説明すると、こういうことです。
ある夜、オフィスの引き出しに一万円を入れたとします。次の夜も同じように一万円を入れます。これで合計二万円ですね。ところが、三日目に引き出しを開けてみると、五千円しか入っていないではありませんか。さて、こういうことが起こったとき、普通の人は数学の法則が破られた、とは考えません。これは、誰かが一万五千円を抜いていっただけのことなんですね。数学の法則や自然法則には、人間の行為を止める力は無いのです。そこで、レノックス教授は次のように推定するんです。「復活を始めとするキリストの奇跡は、自然法則に反したものではない。復活は、神が歴史という引き出しの中に手を入れ、死という一万五千円を取り去った結果、起こったのである。自然界が、外部からの進入を許さない閉鎖系であることを証明しない限り、誰も、キリストの復活の可能性を否定することはできない」
私たちの住んでいるこの地上の世界においても、独裁国家では、独裁者はその国の法律に縛られずに、自由に行動していますね。自然法則を造られた神は、自然法則を尊重なさいますが、自らは自然法則に縛られてはおられないのです。神は、自然法則を超えて、ひとり子の神を人間の姿にし、いのちの君に死を経験させ、そして三日目によみがえらせてくださったのです。
どうぞ、このイエス・キリストをご自分の救い主として受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。
Migiwa:私を赦すために
(ピリピ2:6-8)