ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、私は美容整形相談の記事を読みました。相談者の女性が整形したいのは目でも鼻でも顎でもありません。何と手相なんですね。手相の生命線が短いので整形で生命線を長くして欲しい、そうしないと不安で仕方がないって言うんですね。いのちは手のひらのしわでは決まりません。いのちの造り主だけがいのちの支え主であり、また死につつある人間に永遠のいのちを与えることがお出来になるのです。
今日は、私たちに永遠のいのちを与えるためにこの世に来られたイエス・キリストの誕生記録から、ご一緒に考えたいと思います。聖書にこう書いてあります。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
これはキリストの誕生を知らせに来た御使いのことばです。ここにクリスマスメッセージのエッセンスが語られています。
預言通りに生まれた救い主
第一に、この方はダビデの町で生まれることによって、旧約聖書の預言を成就した救い主だということです。
私たちは自由意思を持つ者として色々選択することが出来ますね。何を食べるか、何を着るか、どこに住むか、どこに旅行に行って誰と会って、どんな学校に行って誰と結婚するか、人生には実にたくさんの選択があります。しかし、同時に自分で選べないこともまたありますね。自分の性別、血液型、名前、皮膚の色、目の色、DNAの配列、そしてどこで生まれるかについても、私たちには選択の余地はありませんでした。まだ母親の子宮の中にいる時、両親の意志や選択に影響を与えることは出来ないからです。
それは、マリヤのお腹の中にいた胎児のイエスについても言えることです。しかし、イエス・キリストはどうしてもダビデの町で生まれなければならなかったのです。と言うのは、救い主の誕生を前もって予告している旧約聖書の中に、キリストはダビデの町で生まれると預言されていたからです。ところが、両親はダビデの町よりもはるか北方にある、ナザレという村に住む人たちでした。普通に考えたらダビデの町で生まれるはずがないんですね。ところが、この時ローマ皇帝が全支配地域の人口調査を命ずるのです。税金の徴収漏れがないようにするために、厳格に実行された方策です。そして、この調査の仕方は自分たちの先祖の地に里帰りして行われるという方法でした。イエスの両親ヨセフとマリヤは、二人ともダビデの子孫です。
そこで彼らはダビデの町に移動しました。そして、このダビデの町に一時滞在している間にイエスが生まれたのです。この瞬間、聖書の預言が実現しました。それも聖書を全く知らないローマ皇帝の命令のゆえに、このことが起こったんですから不思議です。これによって一つのことがはっきり分かります。神は約束なさったことを必ず実行する方だということです。
私たちのために生まれた救い主
第二に、イエスは私たちのために救い主として生まれた方です。生まれたということは人間になったということです。イエスは処女マリヤか ら誕生することによって、人類の一員になったというのです。神である方が人間になり、人類という運命共同体のメンバーに加わったというのです。
今は亡きクリスチャン作家、三浦綾子さんのデビュー作『氷点』がいきなり1千万円懸賞小説に選ばれたということは、本当に衝撃的デビューでした。この彼女の二作目は『塩狩峠』という小説です。これは実話に基づく小説なのです。
北海道の石狩にある急こう配の塩狩峠で、明治42年鉄道事故が起こったのです。先頭汽車の連結器が外れ、客車が下りを暴走し始めたのです。たまたまその車両に乗り合わせていた一人に、クリスチャンの鉄道職員、長野政雄氏がいました。暴走する客車の中で、パニックに陥る乗客を励ましながら彼が最後に取った方法、それは列車の前に身を投げ出して車輪の下敷きになり、脱線転覆の大惨事を食い止めるということであったのです。乗客は文字通り彼の身代わりの犠牲によっていのちを得たのです。彼がそのようにして皆を救い出すことが出来たのは、同じ列車の一員としてその場にいたからです。
キリストは人類の一員としてこの世に生まれた神です。神なのに神の在り方を捨てて人となって来てくださった方です。それは、あなたの救い主となるためであったのです。
神であるイエス・キリスト
第三に、この方は主キリストです。「主」と言うのは神の称号です。単なる正しい人、立派な人、聖人君子や宗教的天才ではありません。この全世界、全宇宙、天地万物をお造りになった神ご自身です。創造主にして全知全能の神、それがイエス・キリストの御本質なのです。
先日、私はあるクリスチャンの手記を読み大変感銘を受けました。彼のお父さんは、ある時から認知症があらわれるようになり、日に日にそれが進んでいったのでした。そしてある時、家族が誰も知らない間に一人で散歩に出てしまったと言うのです。しばらくすると自宅に電話がかかってきました。「お宅のお父さんと違いますか。道で倒れていますよ」彼は自宅を飛び出して、そして父親がいる場所まで全速力で走って行 ったそうです。お父さんは見る影もないようなみじめな姿で、駐車場の隅っこの方にうずくまっていました。彼は涙をこらえながら、お父さんをおんぶして家に帰りました。どこのどなたさんだろう、というまなざしで負ぶってくれてる息子を見るお父さん。この時の父親にはもう背負ってるのが息子だということすらも分からなくなっていたのです。それでは自分と父親の親子関係は終わってしまったんでしょうか。いや終わらないと彼は言うのです。たとえ父親が完全に私を忘れても、私が父親を覚えている限り私たちは親子の関係なのだ。二人の関係は片方が覚えている限り成立するのだと彼は言うのです。
キリストは全知全能の神です。もしあなたがキリストを受け入れるなら、たとえあなたが将来認知症になって分からなくなったとしても、あなたは確かに天国、魂の故郷に帰れます。なぜなら、キリストがあなたをお忘れになることはないからです。
どうぞあなたも、このあなたのために人として来られたキリストを、ご自分の救い主として信じ受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。
(ルカ2:11)