ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆様こんにちは。私の後ろに、この奇跡のピアノ、ありますよね。本当に感動しました。遠藤さんが一万個以上の部品を交換して、生き返らせたと資料の中にはあったんですが、生き返らせた後も、板から塩が浮き出てくるそうです。一度の修理で何とかなるんじゃない、メンテナンスを続けてかわいがって、素晴らしい音色のピアノになりました。
私はその話をお伺いしましたときに、こう考えたんです、「もしピアノが壊れたら、ピアノの専門家にお渡しすれば、専門家はそれを修理することができるのです。もし人間が壊れたら、人間をお造りになった神のもとに行けば、直すことがおできになる」。神様は私たちを愛してお造りになったので、愛する作品が破壊されたりするときに、まるでご自分が傷ついたかのように、直さずにはおれない方なのです。
このイエス・キリストの到来こそは、神があなたのことを特別に愛しておられることの証しなのです。ただ来ただけではなく、私たちの罪のために、神はイエス・キリストという全く罪のない方を、私たちの罪の身代わりにして、あの十字架の上でさばいて下さる程までに、あなたを愛してくださったというのです。
罪人であることがピンと来ない理由
ところで皆さん、あなたの罪のためにって今言ったんですけど、多くの方は教会に来て、罪人と言われると怒りますよね。教会に来るまでは、「どうぞいらっしゃって下さい」とか言ってて腰低いんですけど、座ったとたんに「罪人」とか言われてですね、「罪」ってどういう意味なんでしょう。聖書によると、「すべての人は罪を犯したので神からの栄誉を受けることができない」と書いてあります。なぜ人が「罪人である」ということがピンと来ないのか、いくつか理由があると思うんですね。
今から十数年ほど前なんですが、大阪と名古屋を結ぶ名阪自動車道という高速道路があって、そこで私はスピード違反で捕まったことがあるんです。名阪自動車道というのはトラック便が多いんですね。追い越し車線を運転してたんですが、あおられたんです、真っ黒のベンツに。もう、グイグイ来るわけ、それで道ゆずりたいんですが、隙間がないわけ。あおってくるクルマに押し出されるように、こちらもスピード出しますよ。そしてようやく隙間見つけてパッと車線変更したら、そのベンツがブワーと走り抜けていきました。で、もういっぺん追い越し車線に戻りますと、またあおられたんです。「ホントだれなの…」、パトカー。「とにかく、止めてください、止めてください、はい止めてください」。自分に言われていると思ってませんから、無視。「はい!止まってください」ってね、まぁ止めましたら、まぁ私、ちょっと寝不足もありまして機嫌悪かったんですね。
私がスピードを出したということは、それは事実でしょう。しかし、私はあおられたので仕方なくスピードを出さざるを得なかった、言わば被害者です。「警察は加害者を見逃して、被害者をいじめるんですか?」そうしましたら警察官が「まぁまぁ、そう興奮なさらずに、ま、とりあえず免許証見せてください」ということで免許証をお渡しました。そうしましたら「高原剛一郎さんね、えっ、高原剛一郎、あなたラジオ番組出てますか?」って言うんですね。「実は私の妻はクリスチャンです。そして家でよ~くあなたの番組を、私に聞こえるようにボリューム10でかけるんです。そう言えば、ラジオの声といっしょや!」とか言ってね。そのときですよ、なんとも言えない変化が表れたんですね。彼の奥さんがクリスチャンで、私の番組をよく聞いている人だ、彼自身も番組を何回か聞いたことがあるということがわかるや否や、突然、「穴があったら入りたい」という。それでね、いったいなぜ私は突然恥ずかしさを感じたんだろうか、二つ理由があると思うんです。
神様はすべてご存じ
一つはね、この警察官が私の公の席での発言を聞いてるんですよ。「皆さん、神様の前には罪を素直に認めることが大事です。自己弁護したり、言い訳したりするっていうのは潔くないんです。幼子のようにへりくだって、素直に自分の非を認める人を神様は愛してくださいます」と電波では言っておいて、表に出ている私の姿と、裏の私の姿のギャップの大きさですよ。多くの人々の前では何かいいカッコ言ってるけど、自分自身が何か不利な立場になって行ったときに、残念な自分をさらけ出してしまうのです。
多くの人は「私は罪ありません」、そう思えるのは、自分の裏側の自分がバレてないと思っているからです。しかし皆さん、どんなに人の目を欺くことができたとしても、神は私たちの本当の姿をご存じです。表の私と、裏の私と、その両方をご存じです。神がお調べになっても大丈夫だと言える人は、一人もいないのです。
神様は罪を悲しまれる
さらにもう一つ私がなぜ心苦しくなったかと言いますとね、こう考えたんですね。おそらくこの警察官は、家に帰ったときに、今日あったことを奥様に伝えるでしょう。「君が何か日ごろから尊敬してるとか何とか言ってたあいつね。ラジオのメッセージでは良いこと言ってるけど、屁理屈言う、ごねる、すねる」っていうふうに言われたときの、そのクリスチャン女性が肩身が狭くなって、はーっという姿を想像してしまったのです。そのときに何かひどく、自分が薄汚れたやつのような気がしました。
実は私たちが罪を犯すたびに、目には見えませんが神は悲しんでおられるのです。なぜなら神様は私たちを、悪を行わせるために造ったのではないからです。私たちが罪を行うたびに、神は悲しまれる、なぜ悲しまれるのでしょうか。この罪が私たちの死後の行き先を決定するからなのです。「人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」。
聖書はそのように語っています。神様は罪の結果の刈り取りが、永遠の滅び、死、ということをよくご存じです。ですから神は、悲しまれる。悲しまれるだけではなくて、解決に向けて動いてくださったのです。
私たちの罪のために、宥めの供え物として、御子を遣わされた。一般的には、悪を行えば罰が来ます。相手に対して攻撃したり無視したりするならばやり返されることでしょう。ところが神は、「神なんかいらない」と言うこの人間に対して、正義の鉄槌やさばきではなく、イエス・キリストを十字架にかけるということをなさったというのです。
イエス・キリストは最高のキャッチャー
実は大阪には、もう一人高原さんという映画伝道で有名な、日本ミッションの責任者をなさっていた方がいましてね、その方の息子さんがですね、なんと木下大サーカスで空中ブランコやってるんですね。空中ブランコって、掴む人の方がはるかに難しいそうです。飛びついて行く人は、掴もうとすると失敗するそうです。ただブランコを手放して、飛んでけ~。そしたらね、キャッチャーが掴んでくれるっていうんですよね。
イエス・キリストは最高のキャッチャーです。今までしがみついている古いブランコから離れて、「私の罪の解決、永遠のいのちの保証、天国の国籍はただイエス・キリストにあるということがわかりました。なぜならこの方は私を愛してくださったからです。愛してくださったこのイエス・キリストに、自分を委ねます」って決心して、この方を信頼するならば救われます。
神はあなたをお救いになることがおできになるのです。どうぞこのイエス・キリストを信じてくださいますように、心からお勧めいたします。
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
(ヘブル9:27-28)