ごきげんいかがですか。那須清志です。
私はかつて小学校の教師をしていました。
三者懇談というのがあって、子どもと親と三人で勉強や生活のことを話します。また、問題が起こって、解決のために親と子の三人で話すということもありました。そのようなときによく感じたのは、親の気持ちがなかなか子どもに伝わらないなあ、ということです。逆に子どもの思いをこの親はわかっていないなあということもありました。そのうち、自分が親となって子どもへ自分の思いを伝えることは難しいなあと痛感させられました。
さて、同じ血を分けた親子の間でも思いを伝えることが難しいのならば、ましてや創造主と人との間ではどうでしょう。別人格どころか、造った方と造られたものという別次元の関係です。この人間に創造主なる神は、ユダヤ人を用い、旧約聖書を通してメッセージを与えてくださいました。このユダヤ人であり、旧約聖書の教師にサウロという人がいました。後のパウロのことで、世界に大きな影響を与えました。英語では「ポール」と呼ばれ「ポール・ニューマン、ポール・マッカートニー、ポール・サイモン」など、とても馴染みのある名前になっています。
そのパウロがアグリッパという王様との会話をしました。
王はパウロに言いました。「おまえは、わずかな時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようとしている」それに対してパウロは次のように言いました。
「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」
「鎖」というのは、パウロは鎖に繋がれていて、自由を奪われているということです。福音に関わったことで投獄されることは望みませんが、同席している皆が、福音を信じ、受け入れることをパウロは願っていました。
どうしてパウロはここまで熱心に語ったのでしょう。三つのポイントで考えていきます。
復活したイエスを見たから
第一に、復活したイエスを見たからです。
パウロは、以前イエスを信じたものたちを迫害していました。片っ端から捕まえて、死に追いやることさえ賛成していました。彼らを「神の冒涜者」と見ていました。
しかし、彼は復活したイエスに出会いました。そこから彼の人生は180度転換したのです。
2017年に105歳で亡くなったクリスチャンドクター日野原重明さんは、58歳のときに「ハイジャック」に巻き込まれます。4日間拘束され、死も覚悟しました。結局、韓国の金浦空港で解放されるのですが、その後の人生に大きな影響を与えることになりました。医者としての名声を求めるよりも、与えられた命をどのように使うかを考えるようになったというのです。いのちの大切さを教えられ、いのちの使い方を考え直される人のことはよく聞きます。しかし、ここでパウロはそのいのちをかけて福音を伝えたいと言っているのです。パウロの生き方はこれ以降もぶれず、最後はこの福音を宣べ伝えたために彼は殉教することになります。でも、彼は死から復活し、新しいいのちを持ったイエスと出会ったのです。イエスを信じるものに与えられる「永遠のいのち」のことを覚えると、この地上のいのちの大切さは色あせてしまったのです。
神の愛の完全な計画を知ったから
第二に、パウロがあなたへの神の愛の完全な計画を知ったからです。
あなたが神を知らず、神を無視し、自分が神のように歩んでいても、神のあなたへの愛は変わりません。それどころか神は、ご自分の手で人間が救われるように計画し、すべて
お膳立てをし、人間の帰りを待っておられるというのです。
パウロはメッセージの中で次のように言っています。「話してきたことは、預言者たちやモーセが後に起こるはずだと語ったことにほかなりません」と。これは、旧約聖書の中で預言者たちやモーセを通じて神は救いの計画をずっと語ってこられ、成し遂げられたという意味です。当初、パウロはこの計画を誤解していましたが、イエスの復活を通して変えられました。この計画はイエスの十字架と復活によって完成したことに気づいたのです。そして、これはそれ自体で完結しているので余分なものを付け加えなくてもよいのです。
蛇に足と書いて「蛇足」ということばがありますね。昔、中国の楚の国で宴会が開かれました。お酒があまりにも不足していたので「最初に蛇の絵を描き終えたものが酒を飲める」ということになりました。皆で地面に蛇の絵を描き始めました。最初に蛇の絵を描き終えたある男が酒を飲めることになりました。ところが、その男は、周りがまだ描き終えていないことで余裕を見せ、蛇の絵に足を描き加えたんです。次に描き終えたものが、「蛇には足は無い」ということで酒が飲めなくなった、ということですね。
私たちは時折、このようなことをしてしまいます。お金をたくさん捧げたり、祈りをたくさんしたり、教会に通い続ける、これらは救いを受けたものが自発的にすれば祝福に繋がります。しかし、救いを受けるためにこれらのことをしても蛇足になってしまうのです。神の愛の計画はすでに完成しています。
ですから、パウロは熱く語ったのです。
福音を聞く期限がある
第三に、この福音を聞くには期限があるからです。
多くのものには使用期限とか有効期限があります。「福音を信じることによって救われる」という特別な切符を使うのには期限があります。「神の救いを信仰によって受ける恵みの時」には有効期限があります。それは「この地上でいのちが与えられているときまで」なのです。
では、あなたがこの福音を受け入れるときが、いつまであるのでしょうか。それは誰にもわかりません。だからこそ、パウロは「今日私の話を聞いておられる方々が、みな私のようになってくださること」を切に訴えたのです。
私の教会では月に一度、唱歌や童謡、また讃美歌などを歌う、歌の集いを開いています。コロナ禍で中止になることも多かったのですが、飛び飛びで開催してきました。そんなある日、つい2か月前に元気に来られていた方が急に亡くなられたということを聞いたのです。非常に驚きました。一人住まいだったので発見が遅れたのです。私たちはもう一度いのちのはかなさについて考えさせられました。
同時に、その方が何度も福音を聞いていたことを知っています。集まっている何十人という人の中で一番長い間聞いておられたと思います。ですから、私たちには希望があるのです。薄れゆく意識の中、福音を受け入れていたらどんなに素晴らしいかと。
これは天に行ってみなくては誰にもわかりません。
パウロ同様、福音を語るものはいつも同じ思いを持っています。この福音を聞いている方が、福音の祝福を今、自分のものとしてくださいますように、と。心からお勧めいたします。
Migiwa:The Salvation Poem 救いのうた
(使徒の働き 26:29)