#1069 真の人 イエス・キリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

先日私は、『セーター』というタイトルの短い童話を読みました。お母さんが少年に手編みのセーターを編んでくれたのですが、左の袖口に腕時計の模様がついてるんです。そして、その時計の時刻は午後3時を指していました。おやつの時刻です。3時になると喜ぶ少年のことをよく知っていたお母さんは、彼を喜ばせようと思ってそんなデザインに編み込んだんですね。なんだかあったかい気持ちになりますね。ところで、あなたをお造りになった神は、あなたの心を喜びと平安で満たしたいと願っておられる方です。そして、私たちの喜びと平安を奪うものを取り除くために、イエス・キリストを送ってくださったのです。ある時キリストはこう言われました。

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

ここから三つのポイントでお話いたしましょう。

真の人間

第一に、キリストは、ご自分のことを「人の子」と呼ばれました。これは救い主の別名のことなんですが、元々は人間という意味なんです。神なのに人間として生まれてくださった方ということです。
ところで、本当の人間、真の人間ってどんな人だと思いますか。イソップ童話で有名なイソップは、古代ギリシャの奴隷でした。しかし、とても賢く、機転がきいたので、主人から大変信頼されていたのです。ある時、「隣の家の結婚式に、何人くらいお客さんが来たのか見に行ってきてくれ」と頼まれた彼は、会場に着くなり玄関前に丸太ん棒を転がしておくんですね。そして、自分はやぶの中に身をひそめてお客が帰るのをじーっと待ったんです。式が終わり、お客は次々と玄関から出て来るのですが、皆丸太に躓いては忌々しげに丸太をにらみつけ家に帰って行ったんです。
ところが、あるおばあさんだけは、丸太に躓いた後で、それを玄関の脇にのけてから帰ったのです。戻ったイソップに主人は聞きます。「どうだった、何人くらい人が集まったか。」するとイソップは「おばあさん一人だけでした」と答えます。「そんなはずはないだろう。」するとイソップは「丸太に躓いたりけがをしたりはするのですが、誰一人としてそれをどけようとしませんでした。そんなのは羊と変わりがありません。でも、ただ一人だけ、おばあさんだけは、後から来る人たちのためにその丸太をどけたんです。そういうことができるのは人間だけです。おばあさんは、あの会場の中にいたたった一人の人間です。」
イソップによると、真の人間とは、自分のことだけではなく、他の人のことまでも考えが及ぶ者だとし、何かが人を躓かせるなら、その不幸の原因を取り除くために行動を起こすことができる人こそ、本当の人間だというふうに言ったんでした。
私はこの物語を読んだときにイエス・キリストこそは、真の人の子の名に値する方だと思いました。なぜならキリストはすべての人を倒してしまう罪と死の障害物を、人間から永久に取り除くために、実際、人となってきてくださった方であるからです。

仕えるために来られた方

第二にキリストは仕えられるためではなく人に仕えるためにこられた方でした。
人に仕える神、これが聖書の神なのです。そして、ここに人間が作った宗教と、人間を造った神の決定的な違いがあるのです。
人が作った神は人が仕えなければなりません。毎日水をかえたり、何かを唱えたり、磨いたり、帽子をかぶらせてあげたり、いろんな世話を人間がするんです。しかし、聖書が語る本物の神様は、この世界をお造りになり、今も支えておられる全能者です。
つまり神は何にも困ってません。人が何かしないと途方に暮れるような存在ではないのです。人間に依存しないお方です。なのになぜ人間に仕えるんでしょう。人間は、基本的に神に仕えられて初めて生きることができる存在だからです。
ちょうど無力な赤ちゃんに対して、親が全面的に世話をするように、神は今日この瞬間もあなたに息を与え、生かしておられる方なのです。
キリストは人に仕える方でした。人に仕えることによって、私こそ神の本質を明らかにしている、人となった神なのだということを明かししておられるのです。

米軍の日系人兵士たち

第三に、キリストはいのちを与えるためにこの世にこられた救い主です。
今から75年前に日米戦争が終わりました。戦争末期、沖縄が激戦区となったのです。その沖縄戦に米軍部隊の一員として日系人兵士250人が参戦しました。通常米軍は、忠誠心を考慮し、日系人部隊はヨーロッパ戦線に派遣したのですが、いよいよ本土上陸が近づいたとき、通訳のために250人の日系人兵士を沖縄戦に投入したのです。
ところで、日系人兵士の心境は実に複雑でした。今は敵味方に分かれているとは言え、元々自分の両親のルーツである国に戦いに行くわけです。彼ら本人のアイデンティティは100%アメリカ人です。だからこそ入隊志願したんです。しかし、自分たちの両親や祖父母を生んだ国と戦うのは大きな葛藤がありました。しかし、それをしなければ自分たちがアメリカ人であるということの証明ができないのです。
迷える心境にある兵士の一人に坪田さんという若者がいました。いよいよ出征するときお父さんがこう言ったそうです。「殺すだけが戦争じゃない。人の命を救う戦いもあるはずだ。君は命を救うために戦いに行きなさい。」言葉では分かります。しかし、一体どうすることが人の命を救う戦いになるのでしょう。答えが見つからないまま彼は沖縄に入るのです。

神の在り方を捨てたキリスト

ところで、沖縄では多くの民間人が、ガマと呼ばれる洞窟の中で潜伏していました。降伏を呼び掛けても応じる人はほとんどありません。それどころか集団自決が相次ぐのです。それは、アメリカ兵が鬼のような存在だと教え込まれていたからです。
しかし、坪田さんはこの時、父の言葉を実現する時が来たと思ったそうです。彼は隠れてる人たちの恐怖心や疑念を晴らすため、すべての武具を取り、刃物も、ピストルも、手りゅう弾も、全部それを手放し、そして軍服も脱ぎ、上半身裸になって、無防備な姿になり穴の中に降りて行ったのです。そして、幼い少女を見つけると優しく呼びかけました。「さあ出ておいで。そして一緒に暗闇から出て生きよう。」応じた少女に続いて、その穴の中にいた全員が救出されたというのです。
私はこの話を聞いた時、キリストがしてくださったことを思い浮かびました。キリストは神の在り方を捨てて、無防備になって、仕える者の姿に身をやつし、この暗闇の世に降りて来てくださった救い主です。
それは、あなたの罪を赦し、あなたに永遠のいのちを与えるためです。あなたのために来られた救い主、それがイエス・キリストなのです。どうぞイエス・キリストを信じてください。救われます。心からお勧めします。


使用CDジャケット
沢 知恵:世界に告げよ

今日のみことば
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
(マルコ10:45)