#1063 贖いとは何か


メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。三綿直人です。

さて、私はこんなに綺麗な標準語を喋ってますが、実は大阪出身なんです。東京は世田谷に移住して17年、もうアナウンサーみたいに綺麗な標準語しか話せなくなってしまいました。冗談はさておき、東京に来て関西の人と話すとやっぱり関西弁の表現ってええなぁと思うことがあります。
この前、久々に聞いた言葉に「ちょっと泣いてくれへんか」があります。皆さん、「泣いてくれへんか」って意味分かりますか?「そんなん女優やないんやし、泣いてって言われても…」違います。大阪人なら分かるはずです。意味は『ちょっと我慢してくれないか』というものなんです。例えば、納期のキツい仕事、とっても面倒な仕事、その割に利益はあんまり無い仕事など無理を頼む時、「なぁ、今回はちょっと泣いてくれへんか。次は絶対笑わせたるから」という感じで使うんですね。大阪で育った人しか分からないですよね。
聖書の言葉にもその舞台であるイスラエルの人々ならすぐに理解できても日本人の私たちにはよく分からない、よく分からないばかりか違う意味で捉えてしまうという言葉が結構あるんです。今回は聖書の中でとっても重要な言葉であるのに意味がよく分からない言葉『あがない』についてお話ししましょう。
私の父は胃がん手術で胃を全部摘出しました。それは『いがない』。「ああ、入れ歯ね!」それは『はがない』です。違います。今日のお話は、『あがない(贖い)』です。贖いを理解するために3つのポイントでお話ししましょう。

罪が祝福を破壊する

まず1つ目は、人間の祝福を破壊するのが罪であるということです。
私たちの社会への評価は如何でしょうか。住みやすい社会ですか?良くなっていると思われますか?それとも悪くなっていると思われますか?それぞれの状況、置かれている立場によって感じ方には違いがあるかもしれません。でも共通する思いとしては誰もが平和な世界、愛に満ちた世界、正義がある世界を望んでいるのではないでしょうか。しかし、私たちの社会は決してそうなってはいませんよね。それは歴史を見れば分かります。常に破壊的で憎しみを増幅させ、無秩序に落とす何かがあるんですね。
聖書は人間の祝福を破壊するものそれを『罪』と呼んでいます。罪は遠くにあって私たちの人生に何の関係もなければ深く考えなくてよいのですが、罪は私たちの身近にあり、私たちの人生に破壊をもたらしているのです。
先日、ツイッターでバズった毒舌女シリーズの文言を読みました。ウケました。こんなんです。
“国民のことを考えない政治家の悪口を、家族のことを考えない夫が言っている。“
いやぁ、面白い視点ですね。そうです。大問題である罪は社会の中にあるだけでなく、自分の心の中にもあるのです。悲しいかな「あの人が悪い」と言っている私にも同様の悪があるのではありませんか。
あなたは、自分は被害者であると思っているかもしれませんが、別の人にとってあなたは加害者だとなっているかもしれません。耳が痛いですね。
聖書は私たちは皆、例外なく罪に染まっている罪人であると語っています。そうです。この社会を破壊しているのが罪であり、その破壊に貢献してしまっているのが私であり、私たちはこの社会に住んでいるのです。罪が人間の祝福を破壊するのです。

罪と人間は一体化している

2つ目のポイントにいきましょう。罪と人間は一体化していて切り離せないということです。
こんな疑問を持つ方がおられます。「どうして神が善で、しかも全能なら、人間にとって大問題であるこの罪を神の力で一掃してしまわないのか?」という疑問です。まぁ、そう思っても仕方ありませんね。実は、罪は私たち人間に絡みついていて一体化してしまってるんです。あの悪い法を犯した犯罪人だけが罪と一体化しているのではなく、私自身も罪と一体化してしまってるんです。外側にあると思ってた罪が、自分の内側に存在しているのです。
ですから、こういうことが言えます。もし、神が罪を一掃するなら、罪と一体化している私たちも一緒に一掃され消されなければならないのです。何と悲しいことでしょう。しかし、ここで聖書が語る福音(グッドニュース)があります。聖書が語る真の神は私たち罪人を消すことなく罪を消し去ろうとしてくださったのです。神は罪と一体化してしまっている私を、そして、あなたを愛しています。罪は憎んでおられますが、罪人を愛しておられ、解決をもたらそうとしてくださったのです。

キリストによる贖い

さて、神は一体どのようにして罪人を消し去らずに罪を消し去るのでしょう。
それが3つ目のポイント。神の用意した罪の解決方法が贖いであるということです。やっと出てきました。『あがない』です。この贖いを成し遂げるために来られた方がイエス・キリストです。イエス・キリストの言葉を紹介しましょう。

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

これは、イエス・キリストが弟子たちに語った言葉です。「わたし、イエス・キリストが来たのは仕えられるためではなく仕えるためであり、贖いの代価として自分のいのちを与えるためです。」と話されたのです。
イスラエル人が贖いと聞けば、とっても分かりやすい言葉です。彼らが幼い頃から親しんでいる聖書に書いてあるからです。その概念は『身代わりの犠牲によって負債を支払うこと』です。
イスラエルの人々は罪を犯してしまって解決を求める時、犠牲の動物を携えてコミュニティの調整役のところに来ました。そして、本来は罪と一体化しているその人自身が命をもって支払い消されなければならないのですが、身代わりの犠牲の動物を殺すことによって負債が支払われるという儀式があったんです。罪を犯した人は動物の頭に手を置くことによって、その動物に罪だけが移動し、その動物が身代わりに殺されるんです。そのようにしてイスラエル人のコミュニティの平和と秩序が保たれていたのです。
イエス・キリストはこの身代わりの犠牲の動物に自分をなぞらえて、多くの人の贖いの代価、つまり、ご自分のいのちを身代わりの犠牲として負債を支払うために来たと語られたんです。
あなたはキリストが十字架で死なれたことはご存知でしょう。歴史の事実ですね。しかし、その意味が大切です。キリストの十字架の死はあなたの罪の身代わりの犠牲だったのです。
あなたの罪もイエス・キリストの身代わりの犠牲によって解決がもたらされます。イスラエル人が動物の頭に手を置いて『自分の身代わりです』ということを告白したように、「イエス・キリストが私の身代わりに死んでくださって感謝します。」と言って神に感謝を捧げるのです。これが、神によって用意された救いを受け取るということです。罪の解決、それが『あがない(贖い)』です。
どうか、あなたも「イエス・キリストは私の贖いです。」と告白する方となられますように。心からお勧めします。


使用CDジャケット
ミクタム:あがない主

今日のみことば
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
(マルコ10:45)