#1055 虚無と死に打ち勝つ


メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

先日、私は『死に方のコツ』という本を読みました。医者の立場から死の恐怖を取り除くために書いた本です。
内容を一言で言うと、死の瞬間、脳内ではエンドルフィン、エンケファリンという快楽物質がドッと分泌される。その時、人はある種の恍惚感を味わう。臨死体験者の話は死後の世界の情景がそれぞれ食い違ってるので死後の世界の証明にはならないが、死ぬ瞬間はとにかく気持ち良いらしいという証明にはなるという、そういう本です。
これを聞いてある意味ホッとするという人はいらっしゃることでしょう。しかし、死の恐怖とはただそれだけの事ではないと思うのです。『死んだ後、自分の魂はどこに行くのか?』『死後、人は無になってしまうのか?』そういうスピリチュアルな問題に対する答えにはこの本は答えていないのです。
聖書は死に対して向き合う態度について次のように語っています。

もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。

ここに2つの生き方が紹介されています。

充実した人生を生きたトルストイ

第1の行き方は、刹那的な生き方です。
「どうせ死ぬんだから死ぬまでの間は死を忘れ、ひたすら食べたり飲んだり快楽を追求し、毎日毎日を充実させようじゃないか」という生き方です。
ロシアの文豪にトルストイという人がいます。彼は充実した人生を生きた人です。若い頃は、ギャンブルはする、お酒は飲む、暴れる、女性関係は目を覆うほどで、いわゆる飲む打つ買うの三拍子で散々良くないことをしてきたのです。
狩りも大好きで動物なんかも殺しまくりです。その後、人生の全てが満たされていくのです。16歳も若い10代の妻と結婚し、沢山の子供を授かります。書いた小説は世界中で読まれベストセラーになり、海外から彼を慕って会いに来る人々がひきもきりません。財産もたっぷりあって、親から1500ヘクタールの領地を相続し、1000人の領民と300頭の馬がいました。小説の印税収入が川の如く流れ込み、しかも、肉体的にも健康そのものだったのです。世の中にこんなにも望む全てを手にしている人がいるんだろうかと思うほど満ち満ちた人なのです。

トルストイは虚しかった

ところが、彼は虚しかったのです。何故ですか?最後は死ぬからです。実は、トルストイは身近な人を沢山亡くした人でした。2歳で母親を、9歳で父親を亡くし、おばあさんに引き取られたのですが、そのおばあさんもすぐに亡くなり、今度はおばさんに引き取られるのですが彼女も亡くなります。兄のニコライは結核で亡くなり、13人の子供のうち5人は幼いうちに亡くなっています。お気に入りだった次女のマリヤは35歳で亡くなりました。
それで彼は『懺悔』という作品の中で、自分の本音を吐き出してこう書いているのです。「私の恋はそれがどのような恋であろうとも早晩すべて忘れ去られてしまい、この私というのは完全に無くなってしまうのだ。それなのになんであくせくするんだろう。どうして人はこの事実に目をつぶって生きていくことができるんだろう。実に驚くべきことだ。そうだ、性に酔いしれている時だけ我々は生きることができるのだ。だがそうした陶酔から覚めるとそれがことごこく欺瞞であり愚劣な迷いに過ぎないことを認めないわけにはいかないのだ。つまり、この意味において人生には面白いことや可笑しいことなど何にもないのだ。ただ、残酷で愚劣なだけなのだ。」

刹那的な生き方に解決はない

そして彼はこんな例えで人生の本質はこれなのだと語るのです。「猛獣に追いかけられて井戸に飛び込んでみたら、井戸の底に龍が口を開けて待っていた。それで必死に井戸の側面に生えている草にしがみついた。外に這い出したら猛獣に食われる。そのまま落ちたら龍に食われる。登ることも下ることもどちらにしても滅亡しかない状態で草にぶら下がっていると、2匹のネズミが出てきてその草をぼりぼり食べ始めたのです。このままではたとい草を掴んでいても自分は龍の口に飲まれるでしょう。絶望です。その時、ふと草を見るとその草に花が咲いていることに気がつくのです。その花には蜜が溜まっていて、その蜜をペロリと舐めてみたら何という甘さでしょう。その甘さに夢中になることが生きることに夢中になるということだ。私も蜜の甘さに心奪われて生きてきたが、今人生の本質に気づいてしまったら、甘い美味しさなんかに没頭することはできない。私は死を逃れることができないということに気づいてしまったのだ。」と言っているのです。
刹那的な生き方の中に本当の人生の解決はありません。最後は恐怖のどん底に落ちていくことのなるからです。

死の完全な解決

しかし、第2の生き方があります。キリストの復活という事実を信じ、罪赦され、天国に国籍を持ち、やがて自分も復活できるという望みにいきる人生です。
この御言葉を語ったパウロは、もし復活がないならエペソで獣と戦ったのは実に馬鹿げた生き方だと言ったんです。獣と戦うというのはパウロが実際猛獣と一騎討ちしたという意味ではありません。
彼はエペソという大都市でキリストの復活を宣べ伝えたがために凄まじい迫害を受けたのです。普通の人間が素手でライオンと戦うことなどしません。それは勝ち目がないことです。危険なことです。命がけです。なのでそんなことをするのはとても愚かで損なことです。
彼が生きていた当時、イエス・キリストが人類の罪のために十字架で死んだだけではなく、三日目に復活したことを宣べ伝えるのは愚かなことでした。というのは当時はローマの皇帝が神とされていましたし、エペソにはアルテミスという女神崇拝の神殿があったからです。アルテミスの宗教で食べていた人々は、『神は唯一で、救いもイエス・キリスト以外にはない』という聖書メッセージに脅威を感じ、暴力で大弾圧を加えたのです。正に素手で獣と戦うようなもんです。
ところが、パウロはこのキリスト復活を宣べ伝えることをやめませんでした。何故でしょう。聖書はこう語っています。

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

つまり、キリスト死人の中からよみがえった最初の方となられたのです。そしてそれはキリストを救い主として信じる人々の上にも復活が及ぶためなのです。
もし人が死んでも復活があるならお墓なんて復活するまでの間、遺体が横たわる単なるベッドです。死はまったく恐れるに足らないものとなったのです。如何でしょう。死に対する完全解決はイエス・キリストの中にのみあるのです。
是非、このイエス・キリストをご自分の救い主として信じてください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
大和田広美:ああ愛されて

今日のみことば
もし私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。
(1コリント15:32)
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
(1コリント15:20)