#1024 罪人に対する神の答え―イエス・キリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
今から2年前、クリスチャンプロ棋士の加藤一二三さんが引退されました。彼は史上初、中学生でプロの将棋指しになった方です。
14歳7か月でプロになったため、頻繁に学校を休むことになるんです。その時、彼の所にノートを届け続けてくれたクラスメートの女子と、やがて結婚することになったんですね。
ところで、二人が結婚したとき、加藤さんの師匠が花嫁の紀代さんに一つだけアドバイスをしたというのです。
「プロの将棋指しには勝つか負けるかどっちかしかない。勝ったときはほったらかしておいてもいいです。天にも上る気持ちでいるから。でも負けた時にこそ気を遣ってやってください。」
この言葉を奥様は忠実に実行されたのでしょう。実は、加藤さんは1180敗してるんですね。これは史上最もたくさん負けた記録なんです。
しかし、たくさん負けたということは、それだけ長くプロの世界で活躍し続けたということの証拠でもあるのです。
負けた後で、そこからの立ち上がり方を知っている人は、結局、息長く活動を続け、そして多くの逆転を経験することができるのです。
加藤夫妻は、お二人ともキリストを信じる人です。そして、キリストの約束を一言で言うなら、敗者復活の約束なのです。
罪人が正しい人と認められ、地獄に行くはずだった人が天国に行く保証を受け、死におびえていた人が復活を約束される人に変えられることなのです。
聖書はこう言っています。

しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。

不敬虔な者を義と認める

私の友人は、初めてこの個所を読んだとき、聖書のミスプリかなと思ったというのです。「敬虔な者を義と認める方を信じる」の間違いではないかと思ったんです。
ところが、それは印刷ミスなんかではありませんでした。神は紛れもなく、不敬虔なものを正しいものと認めてくださる方なのだと、いうのです。
これは正義を曲げることではありません。不敬虔な者が受ける罰を、キリストが代わりに受けてくださったと信じるなら、その人をキリストの故に完全に罪赦された者と認めるというのです。
この認めるという言葉はギリシャ語で「ロギゾマイ」という言葉です。実はこの言葉は経済用語で、本来は、「自分の収入ではないお金が自分の口座に振り込まれること」を意味するんです。
何の働きもないのに、キリストの働きによる罪の赦しという莫大な財産が自分の口座の中に振り込まれるという意味なのです。
自分では返済しきれない莫大な罪という借金を、キリストのいのちという、それを上回る莫大な償い金で埋めてくださったというのです。
そして、信じるとはこのキリストの申し出を受け取るということなのです。

前科がある作家、阿部譲二さん

先月、作家の安部譲二さんが亡くなられました。彼は名門麻布中学時代、クラスメートに元首相、橋本龍太郎さんがいたそうです。
実は入試のとき、橋本さんの答案をカンニングして入ったというのです。少年時代からかなりはみ出した人なんですね。
高校の時、ボクシング部のキャプテンになりますが、早稲田の大学生16人を3人で叩きのめしたということで取り調べを受けます。
そして高校時代、すでにやくざ組織に入っていたということが発覚し、退学させられてしまうのです。
それからは転落の人生で、六つの高校を転々として定時制高校を卒業します。
そののち、暴力団員であることを隠して日光のパーサーにまでなりますが、わがままな乗客に切れて暴力をふるって首になったり、用心棒の腕を買われて、力道山からプロレスラーにならないかと誘われたり、まあとにかく有名人との交友関係が広い人でした。
しかし、罪には必ず罰が伴うのです。結局彼は、日本国内だけで合計14犯、国外での前科3犯です。国内と国外での刑務所生活は通算8年間にも及ぶのです。

作家として歩むきっかけの一言

刑務所時代、一つ辛かったことは、読みものがないことだったそうです。彼はどこの刑務所でも、木工作業工場で働いたそうです。
棚には、インテリアの専門誌『室内』のバックナンバーが並んでいました。
活字に飢えていた安部さんは、たちまち編集長の山本夏彦さんの巻末エッセイに夢中になり、ファンレターを書くようになるのです。
やがて、やくざから足を洗った彼は、次々と小説を書くのですが、彼の前科のためにどこの出版社も本を出してくれませんでした。
そんな時、雑誌『室内』の山本編集長、その方から連絡が入り、この雑誌に連載を書いてみないかと声をかけてくださったのです。
この連載で彼は刑務所時代のことをユーモラスに描いていきました。これが一冊にまとめられたものが『塀の中の懲りない面々』で、出版されるとミリオンセラーになるのです。
彼が文筆家として才能を発揮する大きなきっかけは、師と仰ぐ山本さんの一言でした。
「私は安部の文章を見るが、前科は見ない。」この言葉で筆一本でやっていこうと決意できたのです。

阿部さんが尊敬していた山口さん

しかし、安部さんにはもう一人、どうしても溝を埋めて欲しい人がいたのです。それは麻布中学時代の先輩、直木賞作家の山口瞳さんでした。安部さんは山口さんの作品に心酔していたのです。
しかし、山口さんという方は非常に潔癖な方で、特に人を傷つけたり、暴力的なものが大嫌いでした。
そして、そのことのゆえに露骨に安部さんのことを嫌悪し、それを態度や言葉にしばしば表したのです。
自分自身が認めて欲しくてたまらない人から全否定された安部さんは、それに反発して言い返してしまうのですが、どうにもそのことが悔やまれて仕方がありません。
彼は年に二回、盆と暮れに山口さんの自宅に言って直接お詫びをしようとあいさつに出かけて行くのです。

キリストのゆえに神に受け入れられる

しかし、最後の最後まで山口さんは安部さんを受け入れることはありませんでした。やがて、山口さんが亡くなられた後、彼を慕う作家たちが追悼文集を出すのです。その中には安部さんのものもありました。
それは全文憧れと尊敬と悲しみで満ち満ちているものでした。好きで好きでたまらない人に、とうとう受け入れてもらえなかった悲しみが文章の中から伝わってきます。
なぜ山口さんは彼を受け入れなかったのでしょう。彼は生理的に暴力的なものを嫌悪していたからです。そして、どんなに反省しても暴力の過去を消すことはできなかったからです。
しかし、キリストは、私たちの罪を完全に神の記憶の中から消し去る方なのです。
神が不敬虔なものを義と認めることがおできになるのは、神を納得させるのに十分な償いを、キリストが成し遂げてくださったからなのです。
あなたのための救い主は、ここまで完全な救いを完成してくださいました。
どうぞあなたも、イエス・キリストを信じ、受け入れ、永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めします。


使用CDジャケット
国分友里恵:君もそこにいたのか

今日のみことば
しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
(ローマ4:5)