ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日私は、昆虫博物館へ行き、とても興味深いお話を聞きました。虫にとって最大の天敵は鳥だそうです。特に幼虫の時には動きも遅く、狙われたが最後、どうにもなりません。しかも鳥は、ものすごく大食漢なんですね。一度居場所を見つけられたら、周りにいる仲間たちも、片っ端から食べられてしまうんです。しかし、いかに食いしん坊の鳥でも、これだけは食欲を感じないというものがあるんですね。それは自分が排泄した糞です。
いくら食い意地が張った生き物でも、自分の糞は食べたいとは思いませんよね。この鳥の性質を利用して、鳥の糞になりすまして、自らの身を守る虫がいるっていうんですね。その代表は、アゲハチョウです。特にクロアゲハの幼虫はその光沢までもが、鳥の糞に瓜二つです。ある虫などは、形が糞に似ているだけではなく、鳥の糞そっくりの臭いまで発生するという徹底ぶりなんですね。これではさしもの鳥も見破ることはできないでしょう。
自然界をデザインした方がいる
ところで、糞になりすませば、安全なんだということをどのようにして昆虫は知ったんでしょうか。まだ卵からかえって間もないわけですから、鳥を見たこともないし、ましてや、鳥の排泄物を見たこともないんです。しかし、虫たちは時期が来れば、ひとりでに鳥の糞の姿に変身できるんですね。いったいなぜでしょう。そのように体の中の遺伝子の中に、プログラムがあるからなんです。では、いったい誰がプログラムしたんでしょう。プログラマーは誰でしょう。鳥の生態を知り尽くした方、万物の創造主なる神です。この自然界をデザインした方、この世界をお造りになった神がおられるので、このようなシステマティックなことが起こるのだと考えることは、宗教的な話ではありません。一番合理的なことだと思うんですね。
神はおられます。この鳥や虫に惜しみなく知恵を与えて、素晴らしく設計してくださった神は、ましてや鳥よりはるかに優れている人間に、どれほど良くしてくださっていることでしょうか。
ところが、人間は自分のルーツである神様のことが分からないんですね。なぜでしょう。罪を犯したため、神様と断絶状態にあるからです。
聖書の一番初めの創世記にはこの罪の始まりが詳しく記録されています。神様は人を男と女に造りました。神による最高傑作として人をお造りになられたのです。そして、最高の環境であるエデンの園に人間を置きました。園には人が喜ぶ食料となる木があふれかえっています。しかし、神は園の中央に2本の木を置いたんです。1本は、いのちの木です。そしてもう1本は、善悪の知識の木なんです。そして、この善悪の知識の木を取って食べると死ぬと警告なさいました。ところが人は、悪魔のそそのかしに乗って、これを取って食べてしまったがために、人類に罪と死が入ったのです。
神が善悪の知識の木を植えた理由
ところで、この聖書の記録を説明すると、必ずといってよいほど、受ける質問があるんですね。「神様はなんでわざわざそんな木を植えておいたんですか」ということです。「初めからそんな木がなかったら、人は罪を犯すこともなかったのに、どうしてそんな余計なものを造ったんですか」というわけですね。おそらくその答えは、神が創造した時点のアダムを一層完成させ、成長に導くためであったのではないかと思うんです。成熟した良き人格は、ひとりでには、生まれてこないんですね。人は良い選択をすることで、人格に良い習慣が焼き付き、やがてその良い習慣がその人自身の良き人格になるということを、神はご存じであられたのだと思います。
ある時、犬の訓練士が子犬を渡すにあたって、次のように言いました。「最初の日から、誰がボスなのかをしっかり教え込んだら、後はとても良い犬になりますよ。子犬の心はまだ白紙です。この何も書いていない段階で良い習慣を植え付けることで、楽に良い犬になります」って言ったんですね。
犬ですらそうです。ましてや人間は、良い選択をすることによって、選ぶ前の自分をより発展させ、良き人格を作り上げていくことができるんです。
園の中央に善悪の知識の木を置いたのは、それを食べないという良き選択によって、アダムの人格がより輝かしいものになっていく上で、どうしても必要なことだったのです。しかし、人は取って食べてしまうのです。悪魔の誘惑に屈服したんです。悪魔はこう言ったんですね。「あなたがたは、決して死にません。あなたがたがこれを取って食べるそのとき、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになるのを神は知っているのです。」この言葉の意味はこうです。「神はあなたがたの成長を願ってないよ。神にその気はないよ。神のことばを守ってたってあなたがたは賢くなんかならないよ。神はあなたがたが賢くなることを内心不愉快に思ってるんだ。だから神に期待して待っていても無駄だよ。神に信頼していても、時間の無駄なんだ。だったら自分で取って、食べて、賢くなればいい」そして、ここに罪の本質があるんです。
罪は神への反逆
罪とはいったい何なんでしょう。神への反逆です。「神に期待していても良いことなんかない」という神に対する見くびりです。そして、「神には無理だ。しかし、俺にはできる。俺は自分で賢くなって、神のライバルになる」という反逆、神から独立分離して生きる態度のことなのです。人間は、神を悪魔以下に扱いました。神を神としないで、自分の力で生きる道を選び取ってしまったのです。そして、これが罪というものの本質、正体なんですね。しかし、この反逆の瞬間、神が人に呼びかけたことばが書いてあります。「あなたはどこにいるのか。」すべてを見通す神様の目には、人間の姿は丸見えでした。ですから、人の姿が見えないので、どこにいるのかと捜して聞いているのではありません。「あなたは何という恐るべきところに立っているのか」という悲しみと痛みの叫びなのです。
私の息子がまだ幼稚園の時、夜中まで帰って来ないということが一度ありました。もう少しで警察に連絡しようとしたその時、クリスチャンの女性に連れ帰られて、家へ戻って来たのですが、私はその姿を見たとき、足がガクガクと震えたのです。誘拐されたんじゃないかって、本気で心配していたからです。
神は、神から離れた人間を見て、それ以上の思い詰めた気持ちで、今日、あなたのことを心配し、あなたに呼びかけておられるのです。「あなたはどこにいるのか。」あなたにこの神様の呼びかけが分かりますか。もし分かったなら、キリストという道を通って立ち返ろうではありませんか。「神様、キリストによってどうぞ私を受け入れてください」と祈ってください。心からお勧めしたいと思います。
(創世記 3:9)


































