ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
みなさまこんにちは。
九州のある地方都市の市会議員の話です。地方議員であったとしても忙しい、忙しいんですが、感謝なことにですね、義理のお母さんが家事全部引き受けてくれるんです。一緒に住んでね、もう自分の子どもさんの送り迎えから始まってですね、ご主人の食事とか炊事とか洗濯とか、全部ね主婦である自分がホンマはせなあかんねんけど、議員活動のためにそんなんしてられへんので、義理のお母さんが全部やってくれて、「あんた頑張ってねー」言うて。
いやできたお母さんで助かるわー、と思ってたんですが、ある日のことね、そのお母さんが「あなたね、議員活動ね忙しいって、わかるんだけどね、家事ねもうちょっとだけ…」って言って、最後まで言わないでお母さんは飲み込んだんですけど、「もうちょっとだけ家事を…」って、その……って「やらなくてもいいのよ」っていうふうに思う人は国語失格です、それは。「もうちょっと主婦として、家事ちゃんとやってくれませんか、忙しいのわかるけど、もうちょっとだけでいいから」っていうの言いたかったんでしょうね。で、そのときね「え、お母さん、喜んで家事やってくれると思ってたけど、実は我慢してはったんや。私のことを主婦失格と思ってたん?いや、もしかしたらお母さんは、前々から私のことをこの結婚、失敗と思ってたんじゃないか。いや、このお母さん、表面と心で思ってること全然違う二重人格と違うん、なんかこのお母さんいい人だと思ってたけど、いやな人かも」というところから始まって行ってね、その義理のお母さんに対する否定的なイメージが、どんどんどんどん膨らんでいって、しまいにね「居なくなったらいいのに、死んだらいいのに」というところまで妄想が膨らんでしまう。
良くしてもらっているんですよ。なのに、「こんなお母さんと、顔突き合わせるの嫌だわ、居なくなったらいいのに」と思ってたときに、本当に亡くなったんです。これ突然死です。それで亡くなってしまったときにね、深刻な病気が彼女を襲うんですね。良くしてもらってるにもかかわらずね、「このお母さん死んだらいいのに」と思って、本当に死んだでしょ。それは偶然であって、そういうふうに心で思ったから、その思いが相手に乗り移って本当に死んだ、そんなことないんですよ。そんなことないんですけれども、でも彼女の中ではね、自分の中にこんなに醜いモンスターのような、自分の思い通りにならないと相手を破壊したい、というような思いをもって見ていて、実際に亡くなったっていうことを見たときにね、私が呪い殺したのではないか?と思って、そこからいろんな病気が出て来て、とうとう次の年のお母さんが亡くなった同じ日に心筋梗塞で倒れるんです。つまりね、私は罰を受けるべき人間だ、ということでね。自責の念にかられて倒れたというふうにいうんですけど、これ見てたら人間ってね本当に霊的にできてると思いません?
神と本人だけが知っている秘密
フロイトという人はね、こういうふうに言ってるんですね、「人間っていうのは私たちが思ってるよりもはるかに不道徳である。しかし同時に私たちが思ってる以上にはるかに道徳的にできてる。不道徳な心しかない者が不道徳なことをしても悩まない。不道徳なことをしてしまった後で、『何でそんなことをしたのか』というふうに、自分の心の中にある良心の目覚めというか、自分で自分をしばき倒すような、『おまえ、なんて罪深いやつなんだ』と責める思いがある。道徳的にできてるのに不道徳なことしかできない。不道徳なことしかできないのに道徳的なものが残っている。ここに人間の悩みがある」って。不道徳な心しかなかったら、不道徳なことをやったとしても全然傷つかないし、葛藤が生じないんですよ。マルコの福音書の2章からお話ししたいと思います。
2章3節。
すると、人々が一人の中風の人を、みもとに連れて来た。彼は四人の人に担がれていた。
と書いてあるんですが、この中風の人にね、過去にどんなことがあったのかマルコの福音書に書いてないんです。だけど、神と本人だけが知ってる過去の秘密がありますよね。そして彼は実は心の中でね、「この病気になったそもそもの理由は、あの罪のために罰を受けてこうなったんではないか」と考えていたかもしれない。書いてないからはっきりわかりませんけど、私はそうではないかなと見ているんです。なので、ほかの人が見たら「病気治したってくださいよ」って思ってるんですけど、実は彼が一番言って欲しかったことばというのは、罪の赦しだったんです。このひとことをイエス・キリストから鶴の一声で、このひとことを言って欲しいという、そのひとことっていうのはね、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」権威ある者からの罪の赦し、それを、一番言って欲しいことばをイエスがかけてくださったときにね、四人の親友ですら気がつかなかった彼の魂の一番深いところにある悶えというか、叫びをねイエスは理解しておられた方だ。もう、うれしかったと思うんですよね。
神と人とのつながり
この罪の赦し、ということについて、私最近ねあることを経験しましてね、実はね携帯電話、NTTドコモなんです。が、他社乗り換えちゅうのあるじゃないですか。ほんで、ついつい夫婦とも安なるってことでね、シュ~って引っ張られて行ってね。抗えないんです、このことばに。安い。ほんで、別の通信会社に乗り換え手続きをしたときから、トラブルが始まった。手続きしたんですけど、妻の携帯電話、一週間つながらないんです。窓口もわからない。で、クレーム入れるんですけどね、向こうも「どうしていいかわからないんです。すいません。もうちょっと調べてみます、調べてみます、調べてみます」って、もうね「ごめんなさい、ごめんなさい」って一生懸命謝るんですけど、つくづく思ったことはね、「ごめん」って謝って欲しくないんです。私が求めてるのは、「ごめんなさい」じゃなくて、通じることなんですよ。
私も、サラリーマン10年やりましたからね、営業マンで。いろんなところでやらかしますよ、自分がやらかしたわけじゃなくても、ほかの人の分でもね、チームで何とかせなあかんってことあるじゃないですか。そのとき謝罪ってどうします?私ね「すいませんでしたー」ってね、虎屋の羊羹持って行くんですよ。りくろーおじさん持って行くんですよ。ある場合は土下座「ごめんなさいー」みたいな。
して欲しくないんです。この場合はですね、「ごめん」ということばを聞きたいんじゃなくてね、つながるようにして欲しいんです。つながるようにしてくれたら、もう「ごめん」要りません。謝りたいっていう気持ちばっかりでやってね、相手はそれ受け入れて、次同じようなことが起こったときに再発防止ってどうしてくれるの?ということを聞きたいわけですよね。解決聞きたいんです。「ごめん」っていうことば聞きたいんじゃないんですよ。つながり、ということが一番大事なんですよね。実は神様はね、私たちが「ごめんなさい」と言うのを待ってるんじゃないんです。私たちが「ごめんなさい」と言ったとしても、つながりは途切れたままです。この途切れてる神と人との断絶を結ぶために、キリストが十字架にかかって、私たちの罪を帳消しにすることを望んでおられるのです。
神は信仰を喜ばれる
あの地方議員が、私悪いことした、と罪ということを感じたときに、自分で自分のこと罰しましたよね。罪の報いは罰であるというのは、私たちの心の中に書き込まれているんじゃないですか。
千葉県にですね、山武市というところがあってね、山武市が毎年ね、短歌の村おこしをしてまして、市長賞とかね副市長賞とかいろいろ賞を作ってやるんですけど、ある年の短歌コンクールにですね、高校生の作品が優勝して、市長賞取るんですよ。その作品はね、こうですよ「ぼくゴリラ ウホホイウッホ ウホホホホ ウッホホウッホ ウホホホホーイ」優勝。信じられない。担任の先生も信じられない。
なんでそんなこと起こったんですか。この市長ね、ゴリラ好きなんです。何を一番喜ぶのか、そんなんだれも知らんかったんですけど、ゴリラやったんですよね。
でも、皆さん、神が一番お喜びになるのは、イエスに対する信仰なんです。どんなことができるか、どんな能力があるのか、どんな実績を積んできたかではないんです。神のひとり子を自分の救い主として信じるという、神を信頼する、救い主を信頼するという、その信仰をどんなことよりも喜んでくださる方です。神は愛です。罪を赦すためにご自分のひとり子を犠牲にしてくださった方です。「罪は赦された」と言われた。そして信仰をご覧になる方です。ぜひこのイエス・キリストを信じて、アルファでありオメガである方とともに歩む人生の中に入ってください。心からお勧めいたします。
彼らは群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがし、穴を開けて、中風の人が寝ている寝床をつり降ろした。
イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
(マルコ2:3-5)


































