#1338 聖書が語る喜びのおとずれ ③ 救い

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

長い拍手ありがとうございます。このように多数おいでいただきまして本当に感謝しております。
実はここに一枚写真があるんですが、皆さまにお見せしようかどうか迷いながらお見せします。なぜお見せしようかどうか迷っているかと言うと、会場が広いので見えないからです。でも一応見せます。これです。はい、まあこれあのう実は野生動物の写真家が撮ってる写真なんですよね。
あるところで私に下さった方がいて、実は真ん中に立ってる鹿のような生き物っていうのはガゼルと言います。ガゼルというのは細身で、俊敏で、しなやかで、時速80kmで走るんですね。そしてね、ピョーン、ピョーン、ピョーン、1回ジャンプしたら6m。ピョーン、ピョーン、12m。あれなんであんなにピョーンと高く跳ぶかと言ったらね、肉食獣たちに向かって「私こんなに元気だから、追いつけないから、やめとき、ちっちっちっちっちっ」ってこういう意味だそうですね。実は鹿のように見えるんですがウシ科の動物。なので肉付きがいいんですよ。私も牛タン大好きなんですよ。

チーターに食べられるガゼル

で先ほどの写真ね、実はね恐ろしい写真です。実はそのガゼルが生きながらにして食べられてる写真なんです。ちょっと遠目で見えなかったと思いますが、三頭の、三匹のチーターが突っ立ってるガゼルに牙を立てながらむしゃむしゃと、食べられてるんです。この写真は非常に珍しい写真だというふうに言われていまして、動物ってね、噛みつかれたとしても最後の最後まで抵抗するんです。諦めない、生きたいという思いがあるでしょう、じたばたするんです。じたばたしてるうちに何かの拍子で逃げ出すことができるということもある、そういったことをいっぱい経験してる。
ところがこの雌のガゼルはじーっとそこから踏みとどまって逃げようとしない。走って逃げようと思ったら80kmで走ることができる。でも逃げないで、そこにとどまったままで、生きながらにして血だらけになりながら食べられていくんですよね。でもよくよく見ると、そのガゼルがはるか彼方を見つめてるんです。何を見てるか。自分の子どもたちが安全圏に向かって走っていく後ろ姿見てるんですって。
なぜ逃げないのか。ここで肉食獣から集中総攻撃を受けてる間、自分の子どもたちは逃げることができます。自分の命を投げ出し、食べられ、殺されながら、後悔というものがなく、振り向きもしないで、子どもたちが一目散に安全圏に向かって走っていく姿を黙って見ているこの雌のガゼル。動物が、肉食獣が来てるのに無抵抗であるというのは一見弱々しい姿に見えるんですが、でも私はこんなに強い姿はないのではないかとも思うのです。そこにとどまって自分の命を犠牲にして、自分の子どもたちを逃がすということなんですよね。

キリストは自らの死によって死を滅ぼされた

実は今からちょうど二千年前、イエス・キリストという方が十字架にかかられました。裸にされ、殴られ、唾をかけられ、両手両足を釘で打ち抜かれて、十字架の上に磔にされた中で、一見こんなにも弱々しい無抵抗な姿はなかったんですよね。だけどこの姿の中にこそ本当の強さがあります。実はこのキリストの十字架にかかっておられる姿、そのすぐ隣で同じように十字架にかかってる犯罪人が最初ののしるんですよね。「お前が本当にキリストだったら、自分自身と俺たちを救ってみろ!」というふうに。ところがキリストはそれに対して何にも反応することなく、ただ祈られたのです。「父よ、彼らを赦してください。彼らは、何をしてるのか自分で分からないのです。」初めてこの聖書の箇所を読んだ時に考えました。悪いことしたやつが「俺のどこが悪いんだ!死刑にまでされるような必要はないはずだ!」と言い。一度も悪いことをしなかった、良いことしかなさらなかったキリストが、自分を十字架につける者のために赦しを祈っている。ここに罪人である人間と、人となられた神との決定的な違いがあるのではないか。キリストは降りようと思ったらいつでも降りることができるのに、なぜあの十字架にとどまり続けたんだろう。それはちょうどあのガゼルのお母さんが逃げようと思ったら逃げることできるのに、そこにとどまることによって子どもたちを逃がすために、あえて滅びの道を選んでいったようにキリストは私たちの罪を被って、滅ぶことによって私たちを生かそうとされたのです。ですからこう書いています。
「私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
キリストはそのようにしてあなたを愛して、いのちを投げ出してくださった方です。自ら死ぬことによってあなたの罪を帳消しにし、そして死後三日目によみがえることによって死を突き破って滅ぼしてくださった方、それがイエス・キリストという方です。

神のひとり子を受け入れる

最後に一つお話をして終わりましょう。実はアイルランドにフィッツジェラルドという名門の貴族の一族がいたそうです。その一族にバロン・フィッツジェラルド、まあフィッツジェラルド男爵でしょうね。
まあこの方、古今東西の名画のコレクターだったんですね。いろんな名画を収集しては自分の屋敷の中にそれを収納しておったんですけれども、でも亡くなる時がやってきた。遺言状を書いたんです。その遺言状には「競売にかけてくれ。一番高い値段付けた人にこの絵を売ります」みたいな。それで競売の会場に行った時に、さあ一発目どんな作品が出るんだ、どんな名画が出るんだと思って、ぱーっと一枚目、皆がっかりですよ。実はですね、その亡くなった貴族ジェラルドさんのフィッツジェラルドさんのね、一人息子の肖像が出てきたんです。
この一人息子、少年の時に死んでるんですよ。これ名画じゃない、お父さんの思い入れがあるから、それで画家に描かせただけの何の変哲もない、美術品としての価値はないんですが、「これ誰か買いませんか」みんな知らんぷりして「早よ二枚目出さんかいな」と。でもこの絵欲しいって手上げた人いてるんですよ。このフィツジェラルド家に長い間仕えていた執事でね、この少年が息を引き取る時までずーっと世話したおじいさんの執事がいてね、「あー坊やの絵画だ。わしが買います」言うて買った。
「はいはいじゃあ次二枚目二枚目」と。二枚目出てきたときにね、「以後の絵画売買はこれにて終了」というふうに突然宣言されるんです。実はバロン・フィッツジェラルドの遺言によると、一枚目の息子の絵を買った人に残り全部あげるという、そういう遺言なんですよね。「息子の価値を知る者に私の全財産を明け渡したいのだ。息子の中にすべて私の夢が詰まっていたからなんだ」神のひとり子を受け入れる者は、神がお持ちのすべての祝福を受け取ることになるのです。
「御子を信じる者は、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つ」これが聖書の約束です。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
国分友里恵:天の喜びと無限の愛を

今日のみことば
私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。
(1ヨハネ4:10)