
おはようございます。高原剛一郎です!
 ところであなたは、レストランや旅館に行ったとき、「いらっしゃいませ○○様」と名前で言われると嬉しくなりませんか。
 ただの「いらっしゃいませ」に名前がついただけで、特別に歓迎されているような気がしてきます。
 実際前もって名前を憶えていない限り、そんな呼びかけはできませんから、あぁ、気づかいしてくれたんだなと思って嬉しくなるのだと思うのです。
神は名前を呼んでくださる方
実は聖書の神は、名を呼んで導く神です。
 聖書の中にこのように書かれているからです。
 
 だが、今ヤコブよ。
 あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。
 イスラエルよ。
 あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
 「恐れるな。わたしがあなたを贖(あがな)ったのだ。
 わたしはあなたの名を呼んだ。
 あなたはわたしのもの。」
 
 どうして聖書の神は、わたしを名前で呼びかけられるのでしょう。
辺見庸『自動起床装置』
第一に、私の作者として、私の成り立ちをよく知り、そして私のことを心配していてくださるからです。
 作家の辺見庸さんは、大学を出て共同通信という通信社に勤め、特派員として活躍されていました。
 その時の経験を生かして書いた小説、自動起床装置は芥川賞を受賞しました。
 この本の中に、通信社の宿泊センターに寝泊まりしている社員を管理する、起こし屋が登場するのです。
 要するに、睡眠不足でもっと寝ていたいという社員たちを揺り起こす係なんですね。
 社員たちはそれぞれ目覚まし時計をかけるのですが、疲れ切っているからだでは、ちょっとやそっとのことでは起きないのです。
 ちなみに、目覚まし時計についているスヌーズというのは、居眠りの意味なのだそうです。

名前を呼んで起こす起こし屋
では、この起こし屋はどうやって社員たちを起こすのでしょう。
 耳元でやさしくその人の名前を呼びかけることによって起こすのです。
 遅刻したら大変だよということを、思い出させてくれるような、心配した、心のこもった個人名の呼びかけに、人は覚醒するというのですね。
 神さまは、スケジュールに追われ続けて、大切な永遠のことを忘れている人間に対して、様々なトラブルを通して語り、書物を通して、友人を通して、そしてこの放送を通して、大切なことを忘れていませんか、あなたの作者がいることを忘れていませんか、と呼びかけている方なのです。
障がい者の妻を持つ男性の話
第二に、神は正しい方なので、私たちの良心に働きかけて、わたしのたましいに呼びかけられるのです。
 今から数年前、私は下の名前がサダオさんという50代男性が書いたエッセイを読んだのです。
 彼の奥様は左半身が麻痺している、重度の障がい者です。足は装具を付けています。右手に杖を持てば、数メートルは歩くことができます。
 いつもの移動は車いすで、それを押すのは彼の役目です。
電車に乗っていた時のこと
あるとき、夫婦で名古屋の地下鉄に乗った時のことです。車いすを専用スペースにセットすると、彼は何の気なしに杖をもって通路に立ったのです。
 すると、若い女性がこちらにどうぞと言って座っていた席を代わってくれたのです。
 彼女は杖を持っていた彼を、足の不自由な人だと思ったのですね。
 彼は特に何も考えずに、その席に座りました。
 誰かの視線を感じて目をやると、奥さんが険しい顔でにらみつけているというのです。
 障がい者のふりをして若い女性をだまし、席に座ったと思っているようです。
 彼はその奥さんの視線にふれて、初めて悪いことをしたのだと気づくのです。
 しかし、今更立てないと思って下を向いていました。
 次の駅に着くと、一人の老婦人が乗ってきたのです。
 車内は混んでいて、誰も席を譲ろうとしません。
 彼は躊躇しました。というのは、ここですくっと席を立ってしまったら、自分がニセ障がい者だとばれてしまうからです。
妻が彼の名を呼んだ
そのときです。奥さんが車内中に響き渡るような声で、「サダオ!その方に席を譲りなさい!」と言ったのです。
 言ったというより、叱りつけたというぐらいの迫力です。
 奥さんは日頃彼のことを呼ぶときには、「ねえ」とか「ちょっと」とか呼ぶのですね。
 しかしこの時には、「サダオ」と名を呼んだのです。
 びっくりした彼は席から飛び上がり、その老婦人に席を譲り、車いすの奥さんの後ろに立ったのですが、車内は息の詰まるような雰囲気だったというのです。
 ところで、どうして奥さんは公衆の面前で彼の名を呼んだのでしょう。
 おそらくは見るに堪えなかったからです。
 自分の夫にはいつでも男らしくあってほしいという願いが強いので、情けない姿にいたたまれなくなったのでしょう。
 わたしの夫はそんな卑しい人であるはずがありませんという、凛とした決意が彼女に夫の名を叫ばせたに違いないのです。
良心をもって名を呼んでくださる神
冒頭の聖書の言葉のなかで、神はユダヤ人のことを二通りの呼び方で呼んでおられます。
 ヤコブとイスラエルです。
 ヤコブという名は、かかとという意味なのですね。同時に、だますという意味もあるのです。
 しかし、イスラエルとは神とぶつかって勝つという意味なのです。
 神さまを無視するのではなく、神と真正面に向き合ってぶつかっていくように関わっていくという意味で、これは非常に高貴な名前なのです。
 ユダヤ人の先祖ヤコブは、その名前の通り、だます人ごまかす人、卑怯な面がある人です。
 しかしその人物を神はそれでも愛して、神の王子のような名前で呼ばれるのです。
 私たちはやましい事をしたときに、心に咎めを覚えることでしょう。
 悪事に手を染めたなら、心の中に平安がなくなり、自分の中で自分を責める声が聞こえてくるのではありませんか。
 それは良心を通して私たち本人に呼びかけている神の呼び声なのです。
神はすべて知ってくださっている
第三に、神は私たちを救いに招くために、名をもって呼び掛けておられるのです。
 「恐れるな、わたしがあなたを贖ったから」とおっしゃるのです。
 眠っていた良心が目覚めると、とっても恥ずかしい気持ちになります。
 そして神のところから逃げ出したくなるのです。
 しかし、神は私たちの正体や嗜癖、弱さをすべて知り抜いたうえで、しかも恐れないで私のところに来なさいと呼びかけておられる方なのです。
 なぜ恐れるなというのでしょう。恐れの原因である罪の罰は、全てイエスキリストが引き受けて下さったからです。
 キリストこそ、あなたの罪をご自分のいのちで償ってくださった救い主です。
野崎さんがたくさんいる島
ところで、佐賀県唐津市に高島という離島があります。島の人口わずか250人という小さな離れ小島なのですね。
 ところでこの島の住人のほとんどは、野崎さんというのです。野崎さんでないのは十数人だけです。
 どうしてこんな風になっているのでしょう。
 安土桃山時代の1574年、この島に凶暴な海賊が30人ほど上陸して、この島を襲撃するのです。
 その時たまたま島に住んでいた肥前草野家の元家臣、野崎隠岐守綱吉という侍が、たった一人で海賊を討伐し、それによって島の人々は救われたのです。
 島民は感謝と尊敬の気持ちを込めて、その時以来全員が野崎という姓を名乗ることにしたのです。
 尊敬している人の家族の一員でありたい、という気持ちがあったのでしょう。
神の家族になる
さて、人を罪と死の滅びから救ってくださるキリストを信じる人は、だれでも神の家族の一員となる特権が与えられているのです。
 どうぞあなたも、イエスキリストをご自分の救い主として信じ、神の家族の一員となってください。
 心からお勧めします。
(イザヤ書43:1)


































