ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、私は飲食店でバイトをしている方のSNSを読み、たいへん感心いたしました。彼女はお客さんへの便宜を図るために空っぽになったお皿を、「下げますね」のひとことを添えて片付けていたんです。するとあるとき、「それって早く帰れっていう意味?」とお客さんにクレームをつけられるんですね。それを聞いてびっくりしたそうです。あくまで気持ちよく食事してもらおうと思って、やっていたことであるからです。それで「下げますね」だけでなく、「テーブル広くしますね」と言い替えるようにしました。すると今までになく、「ありがとう」と言ってもらえるようになったというんですね。人は自分のために良くしてくれているのだ、ということがわかると嬉しくなるもんですね。
ところで聖書は、人に良くしてくださる神のことばです。このように書いてあるからです。
胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ、背負って救い出す。
さあ、今日はここから、三つのポイントでお話ししましょう。
神があなたを造られた
第一に、神はあなたが母親の子宮の中で、神があなたを組み立てられた方です。あなたを形づくられた作者は、あなたのお母さんではありません。神があなたのお母さんの子宮の中で、あなたにいのちを授けてくださったのです。あなたの生まれた状況や、あなたの両親に関わりなく、神は確かなご計画に基づいてあなたを造られました。たとえあなたの両親が、あなたに関心を払わず、親の務めを果たさないような人であったとしてもです。
神は、ご自分の心に決めたとおりのあなたを造ろうと考えられたとき、あなたの親になる人がそれにちょうどふさわしい遺伝子を持っているということをご存じであったんですね。神は気まぐれや思い付きで、行動しません。ましてや間違うことができない方なのです。
今、多くの子どもたちが、望まれないで生まれてきますね。たとえ生物的な親が、その子のことを望まなかったとしても、神はそうではありません。神はあなたを愛の対象として造られたのです。
絵本『さっちゃんのまほうのて』
第二に、神はあなたという存在を、ご自分の崇高な目的に合致する形にデザインしてくださった方である、ということです。したがって、神の目にあなたは高価で尊いのです。先日私は『さっちゃんのまほうのて』という絵本を読みました。
この絵本の主人公、さっちゃんという女の子は、先天性四肢欠損という障がいをもって生まれてきた幼稚園児です。
ある日のこと、幼稚園のままごと遊びで、いつも赤ちゃん役のさっちゃんが、「今日こそは私がお母さんになる」と言ってエプロンをつけたのです。すると、いつもお母さん役の子が文句を言って来たんですね、「さっちゃんはお母さんになれないよ。だって手のないお母さんなんて変だもん」。友達も、変だ変だというのです。実はさっちゃんの右手は、指がなかったのです。彼女は幼稚園を飛び出しました。「みんな大嫌い」と心の中で叫びながら、そして泣きながら家に帰ったんですね。どうして自分だけほかの子と違うんだろう、それでお母さんに聞くんです。「小学生になったら、さっちゃんの指、みんなの指みたいに生えてくる?」、お母さんはここでごまかすことはできないと考えました。「あのねさっちゃん、小学生になっても生えてこないよ。ずっと生えてこないよ。でもさっちゃんの手は、大事な手だから、さっちゃんも大事に思ってね」。そう言って、さっちゃんの手を両手で包むんですが、それがなぐさめにならないのです。
その晩、自分はお母さんになれないんじゃないかと不安でいっぱいになります。そしてその日以来、幼稚園に行くことができなくなってしまうのです。
あなたは神にデザインされた
それからしばらくのこと、お母さんが赤ちゃんを出産しました。男の子です。さっちゃんとお父さんは病院に行って、そして弟を見ました。さっちゃんはうれしくなって、ほっぺたを触ったりします。とっても幸せな気持ちです、と同時に、不安な気持ちが湧いてくるのです、「私はお母さんになれないのかな?」。病院からの帰り道、とっても美しい夕焼け。お父さんと手をつないで帰りながら、「私、指がなくてもお母さんになれるの?」、するとお父さんは「何だ、さちこはそんなことを心配してたのか、なれるとも。だれにも負けないりっぱなお母さんになれるよ」。そしてお父さんはこう言ったんですね、「とっても不思議な力がさちこの手からやって来て、お父さんのからだいっぱいになるんだ。さちこの手はまるで魔法の手だね」。
さて次の日、けんかしていた子が謝りに来て、仲直りをするんですね。それで幼稚園に行くことにしました。さっちゃんは、ジャングルジムのてっぺんまでスルスルと登って行きます。みんな、「しっかりつかまってね危ないよ」と注意しますが、彼女はひとこと言うんですね、「大丈夫、だって私の手は魔法の手なんだから」。彼女の手は以前と何も変わってはいません。しかし自信をもって、ジャングルジムの頂点にまで駆け上がって行くんです。
何が彼女を変えたんでしょう、お父さんのことばによって、自分に対する見方が変えられたのです。「私の手は少しみんなと違っているけれど、お父さんに特別な喜びを与える力があるんだ」、という見方ですね。この父のことばによって、自己肯定感が植えつけられたのです。
多くの人は大人になっても、どこかで自分にがっかりしていますね、それは人と比べるからです。他人と比べると、必ずそこに優劣がつきます。どんな人間も、すべてにおいてすべての人にまさる人などいませんから、比較で生きていると、自信を失って行きますね。
どうすれば自分を受け入れることができるんでしょう。私は神の理想を実現するうえで、ぴったりの素質をもってデザインされた存在なのだ、という神の宣言を受け入れることなのです。
神は救い主
第三に、神は救い主であるということです。実は、人の自己イメージをだめにするもう一つのものがあります。それは自分の中にある罪です。自分でも嫌になるようなことを、ついしてしまうという性質ですね。また自分でも軽蔑したくなるようなことを、過去にやらかしてきたことです。
良くないと分かっていながら、それを止めることができないでいると、自分を軽蔑するようになるものです。罪は人の自尊心を蝕むんですね。だからこそ私たちには、赦しが必要です。救いが必要です。聖書はこう語っています、「わたしは背負う、わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ、背負って救い出す」。
あなたの全存在を、罪の結果から救い出すために、神はキリストとなって来てくださった方です。イエス・キリストこそあなたの罪の救い主です。
是非、このイエス・キリストを信じて永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。
イスラエルの家のすべての残りの者よ。
胎内にいたときから担がれ、
生まれる前から運ばれた者よ。
あなたがたが年をとっても、
わたしは同じようにする。
あなたがたが白髪になっても、
わたしは背負う。
わたしはそうしてきたのだ。
わたしは運ぶ。
背負って救い出す。
(イザヤ 46:3-4)