ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
実は、私の息子は長い間、女優の宮﨑あおいさんのファンでした。しっかりした役柄が多いのですが、童顔で華奢な体つきの方です。何となくか細いイメージが私にはありました。
ところが先日、この方のインタビュー記事を読み、彼女が大型自動車免許を持っているということを知って驚いたんです。大型自動車免許というのは車両総重量11トン以上、最大積載量6.5トン以上の大型トラックの運転ができるのです。一見、優しい、女性らしい雰囲気の人なのでそのギャップに驚いたんですね。
このように、私たちが何となく誰かに対して持っているイメージとその人の実体は必ずしも一致しないということが時にありますね。それは、聖書の神についても言えることなのです。
あなたは神と聞いた時、どんなイメージをお持ちになりますか。本居宣長によると日本人にとっての神は『人に哀れや感動を与える全てのもの』なんだそうです。太陽や月、風や雨、海や山、大きな木や岩、動植物も人間も並外れたスケールのものはみんな神と呼ばれます。これは今も同じで、ずば抜けた野球の選手は『野球の神様』と呼ばれ、大当たりを連発するギャンブラーは『ギャンブルの神』と呼ばれたりするんです。
しかし、聖書が語る神はこういうものと全く一線を画しています。聖書の神は『人が作った神ではなく、人をお造りになられた神なのです。』この人間を造った神はどのような方なんでしょう。
イエス・キリストはこのように語られました。
わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。
ここから3つのポイントで本当の神について考えてみましょう。
父なる神
第1に、創造主なる神は『父なる神』と呼ばれているのです。
これは神には男女の性別があるというのではありません。神には男も女もありません。父というのは人間がイメージしやすいように比喩として語られているのです。中東における父親の役割は何といっても頼もしいリーダーであり、一族の大黒柱であり、権威ある保護者であるということなのです。
私の好きな童話作家にして詩人に東君平さんという人がいました。46歳の若さで亡くなっているんですが、100冊以上の本を出してます。切り絵で描かれた画風には独特の素朴さがあって温かさが伝わってきます。
実は、彼は神戸の大病院の院長さんの息子として生まれるのです。幼い頃はずいぶん裕福な暮らしをしていました。地元でも有名な名門の小学校に通い、何一つ不自由のない生活をしていたのです。
ところが、中学生の時に頼りにしていたお父さんが死んでしまい、家が破産して一家はバラバラになります。妹さんと一緒に親戚の家に預けられるのですが折り合いが悪く、彼一人だけが別のもっと遠い親戚のところに行くんです。
そこで鰹節工場を手伝ったり、薪割りをしたり、肥料になる鶏の糞を詰めた俵を担いだり、大変苦労するんですね。中卒で東京へ出てバラバラになっていた母親を訪ねますが、あまりの貧しさに身をひくのです。何もかも行き詰まって熱海の写真屋さんに住み込みそこで働くんです。その頃のことを彼は後に、『お正月』という詩にこのように書いています。
“よく一人だけのお正月を過ごした。友達や仲間達はそれぞれの親や兄弟の待つ場所へ帰ってしまった。自分には帰る家がないから暮れのうちから一人きりになってじっとしていた。今年こそは新しい年を迎えると心が騒いだ、とは思っても、まるで裸足で大きく高い山に登るような前途しか無かった。”
彼にとって父とは生活の土台であり、帰るべき家であり、勇気の源のような存在だったんですね。そして、父なる神とはそのような方なのです。あなたのルーツであり、あなたの魂の故郷であり、そして、勇気の源となってくださる方です。
キリストを信じる
第2に、この父が求めていることは「子を見て信じること」だというのです。
子というのはイエス・キリストのことです。見て信じるとは信仰の目でイエスを自分の救い主として見るということです。イエス・キリストがあなたのためにしてくださった罪の償いを受け入れるということです。
今、私たちは肉眼でイエス・キリストを見ることはできません。しかし、キリストがしてくださったことは聖書を読むことで知ることができるのです。
キリストはあなたの罪のために十字架にかかり、あなたに代わって罪の罰を引き受けて死んでくださいました。そして、死後三日目によみがえられたのです。このキリストを信じるものは神が『どこにも罪がない者』と認めてくださるのだというのです。
この神の約束を信じることが子を見て信じるということなのです。そして、これ以上に神を安堵させ喜ばせることは他にありません。キリストを信じることが何よりも神を喜ばせることなのです。
永遠のいのち
第3に、父なる神が求めておられることは、キリストを信じた人に永遠のいのちを与えることです。
江戸時代の俳句の名人に小林一茶という人がいます。彼が結婚したのは50歳を超えてからです。
待望の長男が生まれた時、千年太く生きて欲しいと願って『千太郎』という名前にしました。しかし、生後28日で亡くなるのです。次に生まれたのは女の子で、賢い子になるようにと『さと』と付けましたが、生後1年2ヶ月で亡くなります。次に生まれたのは男の子で『石太郎』と付けました。石は頑丈だからです。しかし、生後100日で亡くなるのです。次に生まれた男子には『金三郎』と付けました。金は永遠の輝きを放ちます。錆びません。腐りません。長持ちします。今度こそ長生きして欲しいと思ってそんないかつい名前を付けたんです。ところが、1歳8ヶ月で死んでしまうのです。
私はこの事を長野県の信濃町にある小林一茶記念館で知ったのでした。その時、ひらめくものがあったのです。農民上がりの小林一茶が子供達に付けた名前はいずれも頑丈そうな侍の子供のような名前だったのです。そして、それは何としても生きて欲しいという切なる願いによるものでした。
ところで、私の名前は剛一郎と言います。これは、今は亡き父が付けてくれた名前です。父は私が1歳の時に亡くなっていたので、何でこんな勇ましい名前を付けたのか知る術がありませんでした。しかし、もしかしたらと思った私は一茶記念館から大阪にいる母に電話をしたのです。「お母さん、もしかして僕にお兄さんがいた?」「いたよ。でも、生まれてすぐに亡くなったんだよ。」
それを聞いて私は全て合点がいったのです。父は私に長く、太く強く生きて欲しい、長生きして欲しいと願って剛一郎と付けたのだと。それが分かった時、無性に嬉しくて仕方ありませんでした。
あなたを造られた父なる神はあなたに単なる長生きではなく、永遠のいのちを持って欲しいと願われました。「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことである。」とキリストは言われたのです。
どうぞ、あなたも御子なるキリストを信じて永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めします。
(ヨハネ6:40)