おはようございます。高原剛一郎です!
私は先日、漫画家のおかのきんやさんのエッセイを読みました。 彼が小学校3年生の時、公園でひとり遊びをしていたそうです。なんとなく視線を感じたので見ると、そこにいじめっ子で有名な小学6年3人組がいて、こちらに近づいてくるではありませんか。彼は、身の危険を感じて、逃げ出しました。すると、それが気に障ったのか、追いかけてくるのです。しかも後ろから、石をビュンビュン投げつけてくるのです。
おかの少年は公園から出て、商店街の方へ走りましたが、3人組はそれでも石を投げながら追いかけて来ます。ふと見ると、おかのさんの目の前にショーウィンドウのあるお店が見つかります。そこで彼は、ガラス張りの店の玄関に立ったのですね。 少年たちはその瞬間、石を投げるのをやめました。石がガラスにあたることを恐れたのです。そして、石を投げずに詰め寄ってきたのです。その瞬間、店の人が出てきて大声で一喝しました。
「小さい子をいじめるんじゃない」
3人は慌てて逃げていったそうです。おかの少年は3人組よりも年も下でからだも小さいのですが、3人組をはるかに圧倒する、かみなり親父の出現で助けられたのです。
ところで聖書には神さまについて、詳しくて正確な情報が書かれています。神とはどんな方でしょう。弱っている人をかばう方なのです。わたしたちは、いじめっ子に追いかけられるようなことはないかもしれません。
しかし、毎日毎日生きているなら、次から次へと、心を弱らせる問題に、責め立てられるのではないでしょうか。ある人は過去の記憶に心を弱らされ、ある人は罪の問題で身を苦しめ、ある人は人間関係で疲れ果てているのではないでしょうか。神はあなたを罪と破滅から、庇い去るためにキリストを遣わしてくださった、このことを今日聖書から考えたいのです。
聖書の中にこう書いています。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
さてここで、神は世を愛したとあります。世とは神に敵対する人々のことです。神さまを無視し、神さまに背き、神さまから離れて生きる人間のことです。つまり罪人のことを言っているのです。ところが、人をつくりまた愛される神様は、人が罪を犯した後でも愛することをおやめにならずに、イエスキリストをこの世界につかわして、キリストによって罪の赦しを得させようとして下さったというのです。
あなたの弁護人キリスト
ところで、聖書学の権威にH.C.モリソンという方がいらっしゃいました。彼はまだ幼かったとき、ご両親を亡くされ、施設で育てられました。少年時代ある問題を犯したために警察に逮捕され、法廷に立つことになったのです。そしてその時のことは、彼にとって将来忘れることができない経験だというのです。
裁判官は事務官に尋ねます。
「この子の代理人はいるのかね。」
「いえ、いません。」
すると裁判官はそこに居合わせた弁護士に突然話を振ったのです。
「あなたをこの子の弁護人とする。」
すると弁護士は少しも驚くことなく二つ返事で引き受け、そしてモリソン少年に尋ねたのです。
「あなたは、犯罪を犯したと思いますか。」
「はい、罪を犯しました。」
「ではその罪を正直に法廷で告白して、裁判所の情けにすがるのがよいと思いませんか。」
「はい、そうします。」
すると弁護人は大きな声で言いました。
「裁判長、司法の目的が保たれ、社会秩序が守られるのであれば、裁判所が情状酌量するのが慣例かと思います。私はここで震えているかわいそうな孤児に裁判長の慈悲を求めます。少年が罪を認め、赦しを求めているからです。」
更に弁護人は裁判官に向かって意外な呼びかけを付け加えたのです。
「お父さん、私はこの子の保証人になり、教育を施します。この子には見込みがるように思うのです。この子は将来、きっと社会に役立つ誠実な市民になるに違いないと、私は思えて仕方ないのです。」
なんとこの弁護人は、裁判官の息子だったのです。
すると裁判官は、
「よろしい。」
と宣告し、自分の息子である弁護人をモリソン少年の代理人としたのです。
モリソン少年は何一つ良いことも、償いもしていません。ただ恵みにすべてをかけてその場に立っていた。本人の行いとは無関係に、あれよあれよという間に許され、チャンスを与えられ、未来に向けての投資が流れ込んできたのです。私たちはやがて死をむかえます。死んだのちに、私たちはひとり一人神さまの前に立つのです。全てを見通しておられる神様の前で、無罪ですと主張できる人は誰もいません。全ての人が罪人なのです。
しかし、あなたをお造りになった神は、ご自分の息子であるキリストにあなたの弁護を任命なさっているのです。
この弁護人が弁護できない罪は何一つありません。
本当のクリスマスの経験
河野進さんという方が「罪人」というタイトルの詩を残しています。
こんな詩です。
主イエスと関わりのない罪人はない
主イエスが忘れる罪人はいない
主イエスがそっぽを向く罪人はいない
主イエスが怒る罪人はいない
主イエスが見捨てる罪人はいない
主イエスが招かない罪人はいない
主イエスがみ手を差し伸べない罪人はない
主イエスに救われない罪人はどこにもいない
なぜ主イエスに救えない罪人がないのでしょう。主イエスは最悪な罪人のためにもご自分のいのちを捨てられ、罪人の償いをなしてくださったからです。もしあなたが生きている今のうちに、あなたのために死んでくださった、いや3日目によみがえられたイエス・キリストを救い主として受け入れるならば、あなたは最強の弁護士を得たことになるのです。
神さまの前に立つとき、あなたは恐れる必要が全くなくなるのです。キリストがあなたの罪をあなたに代わって、賠償してくださったからです。それだけではありません。キリストを信じ受け入れるものに、神は罪の赦しだけではなく、神の家族となる立場、この地上で将来のある人生を生き抜く力、そして天国に入る国籍を与えて下さる方なのです。
一度は少年犯罪を犯したモリソン少年が、人生の中で起こった不思議な神の介入を感謝して受け入れ、やがて聖書学のオーソリティとして押しも押されもせぬ大学者となり、その事によって人類の大きな貢献を果たしていったように、キリストを信じた人には、新しい人生が与えられるのです。キリストはあなたの人生に革命を起こすために、天から下ってきてくださった方、人となられた神なのです。
どうぞこのイエスキリストを信じて、新しい人生に入ってください。それこそが本物のクリスマスです。なぜならクリスマスとは、キリストをお祝いする事であるからです。どうぞ心にキリストを迎え入れて下さい。そして本当のクリスマスを経験なさってください。心からお勧めしたいと思います。
(ヨハネ3:16)