#999 傷によって語るイエス・キリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

ところであなたは学生時代、勉強が好きでしたか。もしそうなら、どの科目が好きでしたか。そして好きになったのには何か理由がありますか。
いろんな方にきいてみると一つわかったことがあります。
好きになった教科には、好きにしてくれた先生がいた、ということです。
私は三度の飯より聖書が大好物です。聖書が好きになったのは、聖書が大好きなクリスチャンから説明を聴いたからです。
そして今では私も、聖書を語る人になりました。それは聖書の主人公、救い主イエスは私が神への反逆者であったときから、私を熱烈に愛しておられたということを知ったからです。
今日はこの聖書の中心主題、イエス・キリストについてお話しましょう。聖書にこう書いてあります。

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるため、その打ち傷の故にあなたがたは癒された。

ここから三つのポイントでお話しましょう。

あなたは思いを込めて造られた

第一に、キリストは神が遣わされた救い主です。
ここでいう神とは「人が造った神」ではなく「人をお造りになった作者」のことです。
大宇宙の主催者、この自然界の設計者、そしてあなたの造り主を、聖書は、神と呼んでいます。
あるポスターにこんな標語が書かれていました。「物を大切に、百回言われるより一回作るほうが身に着く」
今はなんでも物が安くなって、ちょっとした額で簡単に手に入ります。
だからつい、乱暴に扱ってしまいます。壊れてもすぐに手に入ると思っているからです。
しかし、椅子でも手袋でも湯呑茶碗でも、自分で作ってみたらわかりますね。なんと手間、暇、費用がかかることか。
何かを真心を込めて作ると、作り出した作品に対して、愛着が湧いてきます。何か特別なものに見えてくるんですね。そして自分のサインを入れたくなるものです。
魂を込めて作ったものには、その作者の思いが注入されているのです。
神はあなたという存在を、真心込めて造ってくださいました。
ですから、あなたには神の思いが込められているのです。
このようにあなたを造り、あなたを生かし、何よりあなたを愛している作者を聖書は、創造主なる神、と呼んでいるのです。

ある車の窃盗事件の報道

第二に、人はこの神に対して罪人である、ということです。
罪とは、自分の造り主である神から離れて生きることです。
神がたとい居たとしても、自分とは関係がないと考えて生きること、いわば自分を神として生きることですね。
1984年、アメリカのカリフォルニアで、車の窃盗事件が新聞の一面を賑わせたことがあったそうです。
実はアメリカでは車が盗まれるということで、いちいち新聞沙汰になることはありません。毎年何千台という車が盗まれているからです。
しかし、この時は違ったんです。実はある人が避暑用の別荘を持っていたのですが、ネズミの出没に悩まされていたのです。
それで彼はネズミを退治するためのおとりの餌として、毒入りクラッカーを用意したのです。
彼は出かけようとして車に乗り込んだのですが、サングラスを忘れたことに気づいて、キーのついたまま車を離れたのです。
その隙に何者かが車に乗り込み、そのまま猛スピードで走り去ったのです。
彼は車が盗まれたことに気づくと、助手席に毒入りクラッカーを置いてあることを思い出したのです。
それですぐに警察に連絡しました。車をすぐに返すように、泥棒に警告するためにあらゆる方法が採られたのです。
彼らは必死になって、何も気がづいていない泥棒を捜し始めたのです。
テレビ局は泥棒に呼びかけるために一番視聴率の高い時間を割いて放送し、ラジオ局はひっきりなしに電波を流し続けたのです。
どうしてそんなに泥棒に働きかけを続けたのでしょう。泥棒をののしるためではありません。彼を救うために、呼びかけたのです。

罪があるという警告

聖書を見ると、やたらと罪の話が出てきます。
二言目には人間を罪人として呼びかけていることに気づくことでしょう。
しかし、それは神が人間を憎んでるからではないのです。救うために呼びかけているのです。
神から離れたまま死んでしまうと、もう手遅れです。死後には神なき暗黒の世界が待ち受けているからです。
神はあなたを愛するあまり、罪について触れずにはおれない方です。
なので聖書は人間の罪について鋭く語るのです。

ミャンマーにキリストを伝えた宣教師

第三に、あなたの罪を赦すために、キリストが十字架にかかって死んでくださったことです。
キリストはあなたの罪を永久に処分するために、自ら罪を背負って、処分されました。
十字架は恐るべき処刑です。裸にされ、鞭打たれ、両手両足を釘で打ち貫かれ、垂直につるされ、見世物にされ、すべての人から見捨てられ、その後で神からも裁かれるという処刑であったのです。
聖書はこう語っています。キリストは自ら十字架の上で私たちの罪をその身に負われた。と。
自ら、です。自発的にあなたの救いを願うあまり、神と人から受ける苦難をすべて引き受けてくださったのです。
私の尊敬する宣教師にミャンマーにキリストを伝えた、アドニラム・ジャドソンという人がいます。
神は彼を用いて偉大なる大変化をミャンマーにもたらしました。
しかし、最初ミャンマーに到着した時、非常な苦難を彼は耐えなければならなかったのです。人々はあらゆる方法をもって妨害しました。
彼の子どもたちのうちの何人かは事故や病気で死んでしまったのです。
最初の7年間で彼がキリストに導いたのは、たった一人だけでした。
その一人をキリストに導いたため、彼は続く17か月間、投獄されてしまったのです。
足枷をはめられ、そして鎖に繋がれました。それは彼の肉に深くくいこみ、生涯その傷跡は消えることがなかったのです。

傷が示す本気

牢獄から出ると、彼はすぐに当局の責任者のところに行きました。そして聖書のメッセージを語る許可を得ようとしたのです。
しかし責任者は「だめです。あなたをキリストを伝えるために行かせることは許可できません。」と言いました。
「どうしてですか。」とジャドソンは訊いたのです。
すると責任者はこう言ったと伝えられています。
「私たちはあなたが話している内容については実に馬鹿げた話だと思っている。だからそんな荒唐無稽な話については何とも思わないし、気にかけてもいない。しかしあなたはこの滑稽な話を伝えるためにその身に傷を残している。人々はその傷を見て、納得させられてしまうかもしれない。だから許可できない。」
傷には本気がこもっています。流される血には特別な力があります。そして人の心はこの本気に揺さぶられるのです。
キリストは傷だらけになって、あなたをかばってくださったのです。
なぜそこまでされたのですか。本当に天国があり、赦しがあり、救いがあるからです。
どうぞ、あなたもこの傷を受けてくださったキリストを信じて、永遠のいのちをもらってください。心からお勧めします。


使用CDジャケット
Migiwa:丘に立てる荒削りの十字架

今日のみことば
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるため、その打ち傷の故にあなたがたは癒された。
(1ペテロ2:24)