ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
今から12年前に、アメリカ、ペンシルベニア州にあるアーミッシュの学校で銃乱射事件が起こりました。
7歳から13歳の少女5人が亡くなり、5人が重傷を負いました。銃社会であるアメリカでも大きな衝撃の走る事件でした。
しかし、全米を更に驚かせたのはこの事件にまつわるもう一つの出来事だったんです。
それは、このアーミッシュの人たちが「私たちは犯人とその家族を許します。」という声明を発表したことでした。
彼らは犯人の葬儀に出席し、その家族を抱きしめ、涙を流し、許しを伝えました。
この事を聞いた人たちは「偽善だ」とか「宗教の宣伝だ」とか言いましたが、彼らは本気だったんです。
アーミッシュとはプロテスタントの一つの教派であり、移民当時の生活様式を今も守って自給自足の共同生活を行なっている人たちのことです。
考えられませんが彼らの周りには憎しみではなく愛が芽生えたということだけは事実です。
さて、あなたはこのアーミッシュの人たちのように許すことができるでしょうか。
私たちは人を許すことができないのです。
借金の清算のたとえ
イエスのたとえ話の中にこのようなものがあります。
ある時、王様が自分の家来と清算をしようと思ったというのです。
そして、最初に連れて来られた家来はなんと1万タラントの負債がある者でした。
王様は彼に言います。「自分も妻子も持ち物もすべて売って返済せよ。」
彼は「もう少し待ってください。そうすれば返します。」と言うんです。
ところが、王様は彼のことを可哀想に思って負債を全て免除するんですね。
さて、この負債を免除された家来には100デナリ貸しのある仲間がいました。
「もう少し待ってください。そうすれば返します。」と言うんですが、この家来はそれを受け入れませんでした。
首を締めて返すまで牢に放り込んでしまうんですね。
許された価値を知らない
それを見ていた他の仲間たちは心を痛め王様にこの事を伝えました。
その結果、この家来は負債の免除を取り消され、自分も牢に放り込まれるという話です。
分かり易くするために、1万タラントと100デナリを今の貨幣価値に換算します。
そうすると、1万タラントの負債は6千億円の負債ということになります。100デナリの負債は100万円ですね。
これはジャンボ宝くじで10億円が当たって1,600円の負債を許せないようなものなんです。
6千億円の負債は家来が働いて返せる金額では絶対ありません。王様はこの負債を免除したんです。有り得ない話です。
ところが、彼は自分に100万円負債のある仲間を許そうとはしませんでした。
6千億円の負債を免除されたということは、王様から6千億円貰ったということと同じなんです。
しかし、この家来はそれを貰ったにも関わらず、100万円の負債を許せなかったんですね。
許す義務がある訳ではありません。でも、彼は自分の貰った物の大きさ、その価値を知らず、自分の周りの人間との関係を破壊してしまったんですね。
罪は赦される
さて、このたとえ話には不自然な点があります。
それは、何故この王様は1万タラントの負債を抱えている家来と清算を始めたのかということです。
この負債を返せないことは、おそらく王様が一番知っていたはずです。
更に返せないと分かると王様は可哀想に思って負債を免除しました。これは有り得ない話です。
負債を取り立てるための清算ではなく、実は、負債を帳消しにするための清算だと考えると理解しやすいんですね。
王様は家来を重荷から解放したかった。そしてその結果、この家来が自分の周りの人たちの負債を許せるようになって欲しかったように思います。
聖書では、負債は罪のことです。つまり、このたとえ話は自分に対して罪を犯した人を許せるようになって欲しいということを伝えているんですね。
その前提として、あなたの重大な罪は赦されると言っているんです。
神への払いきれない負債
さて、私たちは神に対して重大な罪があります。
その最大のものは、私たちにいのちを与え、体を与え、全ての環境を与えてくださった創造主なる神を無視して生きていることです。
神を無視して、自分勝手に、自分の人生をつかい、感謝もしない。
そして、「私の人生をどうつかおうと自由でしょ!放っておいてください。」と言うんです。
でもそれは、間違った生き方です。
その結果、私たちは神に払い切れない負債を負うことになります。その負債は払えるものではないんですね。
そして、もしその負債を残したまま死んで、神の前に出て清算することになると返済不可能ですから、永遠の牢獄に入れられることになります。
その牢獄を地獄って言うんですね。
しかし、神はそのあなたの負債を帳消しにしようと準備されました。
この計画を実行されたのがイエス・キリストです。そして、それが行われた場所があの十字架の上なんです。
十字架上での言葉
イエスは十字架の上でこのように言われました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
そして、こうも言われました。「完了した」
これは負債の支払いは終わったと言う意味です。つまり、イエスに自分の負債の支払いを肩代わりしてもらったということなんです。
そして、その人は神との清算が行われる時、何の問題もありません。
この事を自分のものとする唯一の方法がイエスを救い主だと信じることだというんです。
私たちは神の赦しを受けることが出来るようになりました。それは、イエスが十字架につかれて私の罪の負債を完済してくださったからです。
私たちは罪の重荷から解放されるんです。
他人を赦す
この事を自分の事として受け取る時、私たちははじめて自分に対して罪を犯した人間に少しだけ寛容になれます。
私たちの心には自分に罪を犯した人間を許したくないという強い思いがあります。
そして、その思いがどれ程私たちの人間関係を破壊し、私自身を苦しめているのでしょうか。
しかし、あなたが神のくださる赦しの本当の意味を知る時、他人の私への罪は小さいものだとはじめて分かるんです。
その時、私の人間関係は一変します。人を許すことのできる者は赦される者でもあるのです。
そして、その人の周りには平和が生まれるんですね。憎しみではなく愛が生まれます。
他人を許すことは損をすることではありません。むしろ幸せな人生の入り口なんです。
神はあなたの罪を赦したい。そして、あなたが周りの人たちの罪を許せるようになって欲しいんです。
私の周りの人間関係に平和を生み出すために、是非、神の赦しを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
(ルカ23:34)