#1342 インマヌエルと呼ばれる救い主キリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

さて、ずいぶんリモートワークが定着してきたと思います。自宅でお仕事ができるっていうのは本当に便利で楽ですよね。そのときに用いられるソフトがズームですけれども、このズームという会社の創業者は、中国系アメリカ人のエリック・ユアンという方なんですね。実はこの方は、山東省の大学生であったときにお付き合いしている女性がいました。後に奥様になられるんですが、この方がよその省の大学に行ってたんですね、大変遠かったのです。それで年に一回だけ会うんですが、片道十時間、お金も時間も体力もかかるということで、「ボタン一つで対面しているかような臨場感でつながることができたらどんなにいいだろうか」これがズームの開発の動機の一つになっているようです。私たちは、大切な人とつながりたいというふうに思うのは自然なことだと思います。神は私たちを愛して、そして私たちとつながりたいと願われました。クリスマスメッセージをひとことで言うと、神の方から、人につながるために、ご自分のひとり子を人としてこの世界に生まれさせてくださった。この事実を記念するのがクリスマスなんですね。そこで今日はイエス・キリストがこの世界にお越しになられた理由について、聖書の箇所からご一緒に考えてみましょう。
 聖書にこのようなことばがあります。

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。
今日はここから三つのポイントでお話ししたいと思います。

なぜ神はご自分のひとり子の神を、人としてこの世界にお送りなさったのか。

人間と共通点を持つ救い主

第一番目に、人間と共通点を持つ救い主とするためなんです。聖書の神様というのは全知全能、完全無欠、人間とはその意味では全く接点がない、共通点がないという存在ですよね。なぜなら人間というのは欠点だらけで、罪人であるからです。しかしひとり子の神は、肉体を持つことによって人間性をまとい、そして人間の弱さを持つことによって、人がつながることができる救い主となってくださったのだ、というふうに言うんですね。ところでベートーヴェンは耳の聞こえない作曲家であったということはご存じでしょう。しかし晩年になって耳が聞こえなくなったというふうに思っている方が多いんです。そうではなく26歳ぐらいから、どんどんどんどん聴力を失っていかれたんですよね。ピアノソナタ8番は『悲愴』ですよね、これが書かれた1798年から翌年にかけて急激に聴力が落ちていくんですよね。どんどんどんどん聞こえなくなっていくというその時の心境で、タイトル『悲愴』にしたんですね。彼のすべての作品を合わせますと全部で138ですよ、耳が正常な状態で作れた曲というのは、1番だけだそうです。
自分自身が実は聴力どんどん失っていくんだということを、初めて人に打ち明けた相手というのがいるんですね。カール・アメンダという人物なんですよね。なんでこの人物にだけは心開いたかといいますとね、この人、牧師であり 哲学者であり同時に超一流のバイオリニストだったんです。ベートーヴェンは彼のためにも曲書いてますよ。つまり、ベートーヴェンの信仰的なこと内面的なことだけではなく、ベートーヴェンの芸術についても深い理解と共感を示すことができる人だったんです。なので自分の音楽上の問題や悩みにつきまして、アメンダに何でもぶっつけていくんですよね。そして「涙ながらに君に言うよ、僕は何度か自分のいのちを絶とうとした」って。弱音を吐いたり神に対する怒りのようなものまでも、彼には信頼してぶっつけたのです。そしてそれを聞かされた彼は、一つもお説教することなく、「僕も君の心と同じで、胸が張り裂けそうだ」ということで、しっかりと受け止めたんですね。このような善意の聞き手、音楽家としての悩みの深さをよーく理解したうえで受け止める人がいたからこそ、彼は途中で人生を投げることがなかったんですね。イエス・キリストという方は、それ以上に私たちに寄り添うことができる方です。この方も血と肉を持ちました。人間の弱さをよーくわかっているんです。私たちの心のどん底まで下りて行って、ともに寄り添うことができる方、これが救い主イエス・キリストという方なんです。

悪魔の力を無効にする

第二番目に、死の力を持つ悪魔の力を無効にするために、キリストはこの世界に来られたというんですね。この死の力の「死」ということば、ギリシヤ語でタナトスということばなんですけど、分離という意味なんですよね。分離の力ってどういうことかといいますとね、絶望を武器にして使う霊的な存在がいるんだ、というふうにバイブルは語るんですね。
今から115年ほど前に、南極点到達でイギリスのチームとノルウェーのチームが競い合うということがありました。イギリスのチームは南極点到達最後のルートにつきましては5人選抜隊を組みまして、南極到達やるんですけど、着いたときに自分たちよりも先にノルウェー隊の旗とテントがあるのを見て「ああ、競争に負けたんだ」これでがっくりくるんですね。しかもそこから1300キロ、歩いて帰らなければならなかったんですね。このときの南極の気候っていうのは非常に厳しくて、猛吹雪の連続、そして5人がUターンで帰って行くんですけど、一人が凍死してしまいます。もう一人オーツという人物が、両手両足が凍傷にかかってしまうんです。それで早く歩くことができなくなるんですね。一日8キロしか動けなかったんです。そのようなスピードで帰って行くと、食糧も燃料も尽きてしまう、そのことを考えたときにオーツは絶望しました。つまり自分は役に立つと思ってこのチームに入ったのに、足を引っ張ってるだけだ、他のメンバーのいのちも危険にさらしてる、絶望したんです。そして猛吹雪のある朝、「ちょっと外に出て来る」と言って二度と戻ってこなかったんですね。なぜ自ら死の道を選んだんでしょう。絶望したからです。
「なぜそんなことをしたんですか」と言ったときに多くの自死未遂者の方が、「魔が差した。悪魔としか言いようがないものによって何か吹き込まれた。あなたの人生はもうやり直しがきかない、このまま頑張って生きてもいいことはない、あなたの未来は閉ざされている。そのように思い込むときに、もう無理だ!ということで死の側を選ぼうとしたんだ」と言うんですね。
これが死の力を持つ者、悪魔は絶望というものを人に吹き込んで、そして人をだめにしようとするんです。しかし、キリストにあっては、その絶望の力はすべて無にします。なぜなら、どんな罪人もキリストの十字架の犠牲によって、罪の赦しがすでに終わっているからです。どんな死に対する怯えも、キリストの復活によって死後に永遠のいのちと天国があるという希望があるんです。このキリストにあっては死の力、絶望はすべて打ち砕かれるものとなるのです。

死の奴隷からの解放

第三番目に、死の力を持つ悪魔を無効にするだけではなく、一生涯死の奴隷となっていた人たちを解放するためでしたというふうに書いてあるんですね。私は一つ思い出す話があるんです。スターリンという人物がいましたね。たいへんな独裁者で1937年から38年の二年間だけで158万人を逮捕しました。そして68万人を銃殺刑にしているのです。トータルすると2000万人が彼の命令によって殺されたというふうに言われているんです。彼はまさに死神のような人物でした。ところがスターリンも死ぬときがやって来たんですね。クレムリンで鐘がずーっと鳴ったんです、それで一市民がクレムリンに電話かけて「何があったんですか、こんなに鐘鳴らして」「同志スターリンが死んだんだ」「そうでしたか」ガチャン電話切るんです。2、3分経ったら「どうしてこんなに鐘鳴ってるんですか」「同志スターリンが死んだんだ」「あっ、そうなんですか」ガチャン、また1分くらい経ったらかかってきた。またかかってきた。またかかってきた。またかかってきた。「おまえさっきから、同じ声の主じゃないか」と、「なんで二十回もこんなこと聞くんだ」と言ったら、「スターリン死んだんでしょ、いい話は何回聞いてもいいですからね」と言って電話切るんです。死が滅ぼされた。なんていういい話ではありませんか。死を滅ぼした救い主、その方が来られたことを記念するのがクリスマスです。
ぜひイエス・キリストを信じてください。そして罪の赦しと永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
レーナ・マリヤ:馬槽の中に

今日のみことば
そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。
(へブル2:14-15)