#1322 語り継がれた希望のことば

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。三綿直人です。

 娘が入学した中学校の図書室掲示板に、生徒からの質問が載っていました。「大人は読書が大切だと言いますが、なぜ読書は大切なんですか?読書をするとどんないいことがあリますか?」といういい質問ですね。これに対する図書室長の先生からの答えが秀逸でした。「自分からは出てこない言葉に出会えることです」。素晴らしいですね。とにかく読めばいい、とか読書の素晴らしさを知るために読書をするのだとか、よくわからない答えではなく、心がスキッとする答えでした。私たち人間の体は、食事で成長します。そして、心は、言葉で成長するんです。自分からは出てこない言葉との出会いで、私たちの心は育まれていきます。ですから読書は大切なんですね。もし読書が自分からは出てこない言葉に出会える良い機会であるとすれば、聖書を読むことは、もっと大きく、人間からは出てこない言葉に出会えるという幸いがあると思います。今日は、聖書の中で、神が私たちに語っておられる、希望のことばを紹介しましょう。テモテへの手紙第一、1章15節のことばです。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。この聖句からいつものように3つのポイントでお話しさせていただきます。

キリスト・イエスは

まず、1つ目のポイントです。この希望のことばの主語ですね。キリスト・イエスというお方について、ご存じですか。キリストというのは、称号、タイトルです。イエスというのは、当時のユダヤ人の中ではよくあった普通の名前です。キリストは、「救い主」という意味です。そして、この救い主は、神が人となられたお方なのです。私たちの住む世界は、人が死んで神になるという世界ですが、聖書は、神が人となられて人類救済を実現すると、昔から約束していたんです。それがキリスト・イエスだ。救い主はイエスだ。というのが、キリスト・イエスは、ということなんですね。
ところで、どうして神は人となられたんでしょう。
私は毎年1回、栃木県鹿沼市の教会を訪れて、聖書のお話をしているんですが、日曜日のすべてのスケジュールが終わった後、主催者の方が鹿沼名物の「にらそば」を食べに連れて行ってくれるんです。なんと、ざるそばの上に、あのニラがのってるんですね。そばとニラが合うのか。ぜひ、ご賞味くださればと思います。そこで、招いてくださった方がいつも私に聞く質問があるんです。「三綿さん、いろんなおそばをご存じだと思いますが、どこのおそばが一番素晴らしいですか?」営業マンであった私は、こう答えます。「もちろん、鹿沼のにらそばです」この聞いてくださった方は、いつもにっこり笑って、こう言います。「違います。一番素晴らしいおそばは、イエスさまのおそばです。これにまさるおそばはありません」と笑顔でおっしゃるんですね。うまい!という感じですよね。神が人となられた理由は何でしょう。それはズバリ、私たちのそばにいてくださるためなんです。人となられた神、救い主イエスは、弟子たちをご自分のそばに置かれました。それは、一緒にいて愛を伝えるためだったんです。私たち人間を支配するため、さばくために神は人となられたのではなく、一緒にいて、愛を伝えるために人となられたんだ。それが、救い主イエスである。これが、聖書が私たちに教えている福音なんです。救い主イエスは、永遠に私たちとともにいたいので、死を打ち破るために、十字架にかかって、復活してくださったのです。

罪人を救うために

2つ目のポイントに移りましょう。罪人を救うために来られた。ということです。罪人とは、一般的には法を犯した人。という意味ですよね。でも聖書では、的を外してしまった人。という意味です。なんの的でしょう。ズバリ、愛という的を外してしまった人。これが罪人なんです。皆さんには愛がありますか?聖書によると、私たちは、愛の神から離れているので、真実の愛を知らず、真実の愛で愛せなくなってしまっている。と教えられています。夫婦の愛、親子の愛、友情の愛、私たち人間は誰もが愛を求めているのに、真実の愛に出会えないので、人生が壊れ、虚しさが心に広がっているのです。愛がわからなくなっている私たちのために、神が人となって愛を伝えてくれました。私たちがまだ愛がわからず反抗している時、神はキリストを十字架につけ、それによってどれほど、私たちを愛しているかを伝えておられるのです。罪人が救われるとは、単に過去の罪が無罪放免になるというだけではなく、愛の神との関係が回復するということがその本質です。聖書の救いは、神との関係回復なのです。キリストは、あなたに愛を伝えて、あなたが神との関係を回復する、すなわち救われるためにこの世界に来てくださったのです。

言葉の意味を信じるのが信仰

最後、3つ目のポイントでメッセージを結びましょう。キリスト・イエスは罪人であるあなたを救うために、この世界に来られました。というこの神のメッセージを、その意味通り信じるのが信仰です。人は、行いによって救われるのではなく、信仰によって救われます。信仰ってどういうことでしょう。遠藤周作の『沈黙』を読んだことのある方もおられるでしょう。時代は、江戸時代初期の激しいキリシタン弾圧の時代です。特に、島原の乱(1637-1638年)後の激しい弾圧期を舞台に、棄教を迫られる宣教師や隠れキリシタンたちの苦悩と信仰を描いています。 この小説は、クリスチャンでも評価が分かれます。神はこんなに人が苦悩しているのに、「沈黙」しておられる。という神への怒りを書いているようにも思えるからです。しかし、遠藤周作の友人の三浦朱門氏がこの小説に対する遠藤周作の思いを解説しています。三浦朱門氏は、こう言うのです。「この小説を通して遠藤が描いているのは、信じていると言いながら裏切り続ける私たち人間を、ただ黙って受け入れておられるキリストへの愛を描いているのだ」と。同じ「沈黙」という言葉ですが、全く逆の解釈だと言えるでしょう。私は、遠藤周作氏と会ったことはありません。しかし、彼の友人の解釈を信じることにしました。遠藤周作が、神への怒りを表現して書いたのか、キリストへの愛を表現して書いたのか、二つの解釈があるでしょう。どちらを信じるかは、自由です。それと同じように、キリストが十字架にかかったこと、復活されたということは事実ですが、これは、神が私を愛し、私との関係回復を願ってなされたことなのか、立派な道徳家であったキリストも、最後はローマによって十字架で処罰されたというのか、どちらの解釈を信じられるでしょう。聖書が語っている意味を、そのまま受け入れることが聖書が求める信仰です。あなたを愛し、あなたのために人となられ、十字架で死なれ、復活して今あなたとともにいたいと願っておられるこのキリストを知ってください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
戸坂純子:希望の道

今日のみことば
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。
(1テモテ1:15)