#1318 福音再考 in 下関

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。那須清志です。

 だれにも生まれ故郷があります。私の場合は山口県下関市です。先日、訪れたとき、数十年ぶりに通った道がありました。すっごく急な坂と思っていたところが、案外なだらかだったんです。似たような経験がありませんか。ふ当時は背も低く、今と視界が違っていたのでしょう。抱いていたイメージと大きく異なっていました。聖書や神、イエスに対するイメージにも同じようなことが言えるのかもしれません。私も以前は、聖書なんて西洋の宗教書で、いい子ぶったアクセサリーみたいなものだと思っていました。もちろん今は違いますし、同じように誤解されていないこと願うばかりです。
 今日は、この下関滞在を通して福音について考えたことを三つのポイントでお話しいたします。

関門トンネル

 一つめは、関門トンネルについてです。本州の西の端にある下関と九州の門司をつなぐものとして一番目立つのは関門橋です。当時は東洋で最長の吊橋でしたが、今はそれよりも長い橋は多く造られています。その橋ができる前に本州と九州をつないだものに、鉄道用の関門トンネルがあります。開通は1942年ですが、世界で最初の海底トンネルでした。そもそもこのトンネルを造るという技術が飛躍的に進んだのが、ブルネルという技師が発明した方法でした。今から150年前のものです。彼はフナクイムシからその技術を思いついたというのです。フナクイムシは、名前は「ムシ」とつきますが、貝の仲間でミミズのような体の先に小さな貝殻がついています。流木や木造船の木に穴をあけていくのです。船にとっては大敵ですが穴の掘り方は見事です。先の貝殻で穴を掘るだけでは、水ですぐ木が膨張し、自分が挟まれてしまいます。そこで穴を掘ると共に口から石灰分の液を出して穴の内壁を固めていくというのです。ブルネルはこの様子を見て「トンネルを掘る最適な方法」と考え採用しました。現在シールド工法と呼ばれる技術ですが、自然にヒントを得たのです。
 聖書はこの自然を造られた方を創造主なる神と紹介しています。人間は自然の素晴らしさに驚嘆し、賞賛しますが、それを造られた神にまで心が及びません。人間の素晴らしい作品や技術、技巧を見たときに、その作者に注目し、どんな人か、また他にどんなものを造っているかが気になるものでしょう。栄誉、賞賛を受けるのは作者であって、作品自体にメダルをかける人はいないし、作者を無視することなんてあり得ません。しかし、自然の場合は、すごいと認めても長い年月で偶然にそうなった。と片付けてしまうのです。聖書から見るとこれはとても愚かなことで、的をはずしており、作者に対する失礼極まりないことです。福音理解の第一歩は、創造主の存在に気づくことなのです。

ザビエル上陸記念の碑

 二つめは、サビエル上陸記念の碑についてです。私が住んでいたころにはなかった記念碑が、唐戸という海岸沿いに建っていました。日本にキリスト教を伝えたスペイン人フランシスコ・ザビエルが下関に上陸したところを記念しています。彼はポルトガルを出て、8年かけて九州の鹿児島に上陸し、翌年1550年に山口に入ります。彼にその思いを決断させた聖書のことばもそこに刻まれていました。 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。」(マタイ 16:26)というイエスのことばです。これは「人のいのちは何よりも尊い」ということを言いたいだけではありません。この地上でいくら富んでいても、自分を造られた神の前に富んだものでなければ永遠の祝福にならない。ということです。地上だけで終わってしまういのちではなく、永遠のいのちがあること。そして人間はそれを信仰によって受け取ることができるということを聖書は語っています。福音と言われるその知らせを伝えるためにザビエルは日本に来たのです。信仰の細かいところに違いはあっても、日本人に「イエスの福音」を伝えたいという思いには頭が下がります。元来、立派な城に住んでいるような貴族出身のザビエルでしたがイエスの救いに与り、喜び、これを伝えたい一心で多くの危険を乗り越えてきました。
 今、問題に直面し、悩みや苦しみに打ちひしがれてる方がいるかもしれません。私たちを造り愛しておられる神は、その解決策を聖書を通して示しておられます。多くの人に生ける希望を与えてきた福音に耳を傾けてはいかがでしょうか。また、特に困っていることもない。という人もいるでしょう。しかし、全世界とは言わないまでも多くのものを得て、十分満足している人に対しても「本物のいのちを持っていますか」と聖書は問いかけます。この地上で終わらない永遠の祝福に目を留めるように聖書は勧めているのです。

石井与次兵衛

 三つめは、石井与次兵衛という武将についてです。別名明石与次兵衛といい、豊臣秀吉の側近でした。秀吉が九州にいたとき母親が危篤であることを聞いて急遽大阪に戻ります。九州から下関に船で渡ることになりました。そこで事件が起こります。与次兵衛が船頭をしていた船が「篠瀬」と呼ばれていた岩場に座礁したのです。九死に一生を得た秀吉でしたが、危険な目に遭わした与次兵衛に怒り心頭です。責任をとって斬首されたとも、自刃したとも言われています。今は岩礁自体ありませんが、彼の名を伝えるために記念碑が長らくそこにあったということです。有名なシーボルトの著書にもその碑のことが記されていました。助かったのだからそこまでしなくても、と思うのですが、秀吉の他の言動からみると想像に難くありません。力あるものが、迷惑をかけたものを好きなように処分する。これは今でも世界中で行われていることです。赦すだけでも珍しいですが、ましてや格下のもののために尽力するというのは稀です。しかし、聖書が語る救いについてはまるで反対です。この世界を造り、人間を創造した神ご自身が、人類を救うために救いの計画を立てられたと聖書は語ります。
 この神の救いの計画は、救い主イエスを通して実現しました。神が人間をさばくという形ではなく、罪のないイエスが十字架でさばかれるという方法を通して示されました。イエスは死んで終わりではなく、神がイエスを死者の中からよみがえらせるという形で、この計画の確かさを保証しました。
 石井与次兵衛の名前がかろうじて覚えられているのは、その非業の死のゆえです。イエスの名前が場所を越え、時代を越えて覚えられ信じられているのは、その身代わりの死と死後三日目に起こった復活のゆえです。この方の中に、私たちが抱え込んだ様々な問題の解決への糸口があるのです。
 ぜひ、あなたも聖書が示す救い主を受け入れ、「本物のいのち、力、慰め、励まし」を自分のものとされますように心からおすすめいたします。
 


使用CDジャケット
岩渕まこと&由美:福音の力

今日のみことば
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
(マタイ16:26)