
ごきげんいかがですか。三綿直人です。
先日、妻のご両親と私たち家族で菜の花畑に行きました。よく手入れされた菜の花畑に春の陽光が降り注ぎ、まるで黄金の絨毯のように美しいその風景は、私の心を癒やしました。また、菜の花の甘い香りを嗅いで心地よく深呼吸をしていたその時、子どもたちの声が聞こえました。「なんか、唾の匂いする!」なんと、子どもたちにとっては、菜の花の香りは、唾が乾いた匂いだというのです。わかる方おられますか?私は妻と顔を見合わせて思わず笑ってしまいました。同じ匂いを嗅いでも、年齢によって、捉え方、感じ方が全然違うのです。
さて、私たちの人生には必ず、苦難が訪れます。しかしながら、同じ苦難を経験しても、捉え方によって全然違う人生を歩むことになるのではないでしょうか。今日は、聖書が語る苦難の捉え方を紹介しましょう。まず聖書を一箇所お読みします。
私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。
この箇所から聖書が語る苦難の捉え方を3つのポイントでお話しましょう。
苦難の原因探しはしない
まず、1つ目のポイントです。苦難の原因探しをしなくても良い。いや、しない方が良いということです。このことばを書いたパウロというクリスチャンは、病気になったり、投獄されたり、裏切りにあったり、遭難したりとさまざまな苦難を経験しました。しかし、彼はその原因探し、責任追及、責任転嫁をまったくしていません。苦難にあったとき、原因探しをしてしまう方、責任転嫁する方、多くおられませんか?あの時の自分の失敗が、この苦難の原因ではないか。自分の努力が足りなかったせいではないか。いや自分は頑張ったのに、環境が悪かったからだ。いやこうなったのは、あの人のせいだ。などなど。しかしながら、これらの原因探し、責任追及はすべて不毛に終わるんです。私たちが人生で苦難にあったとき、聖書は原因探しを推奨していないということをまずお伝えしておきたいと思います。
苦難は人格を練る
2つ目のポイントは、苦難は人格を練る。ということです。ところで、私たちの人生で最も大切なものはなんでしょう。それはどんなに歳を重ねても無くならないものです。名誉、地位、富、これらは大切なものですが、いつまでも残るものではありません。いずれ失うものです。逆に歳を重ねてもこれらにしがみついている人は、哀れな人と言えるでしょう。どんなに歳を重ねても無くならないもの、輝きを増すもの、それは、人格、その人の品格です。富はあった方が良いですが、人格のゆえに信頼され、その上で富を持っている人は富がなくなっても幸せですが、人格ゆえの富ではなく、騙し取ったもの、宝くじ当選などによって急に得た富では、人は幸せになれないんです。友人が多いとうことは幸いですが、人格ゆえに友人が多いのと、富と権力のゆえに友人が多いのでは雲泥の差です。名誉、地位、富など、その人の品格ゆえに与えられたものなら幸いですが、人格なき名誉、地位、富は、儚いものではないでしょうか。ではどのようにして人格は練られるんでしょう。体の筋肉は筋トレで鍛えますが、人格は、苦難によって練られると聖書は教えています。苦難が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと聖書は語るのです。
全盲の讃美歌詩人、ファニー・J・クロスビーという人がいます。彼女は、幼い時の医療ミスで全盲になりました。しかしそんな彼女に大きな影響を与えたのは、クリスチャンのおばあちゃんでした。神は耐えられない苦難は与えない、あなたに苦難を与えた神は苦難を通して、あなたの人生を最高のものにしてくださる。この神に信頼するのよ。と幼いクロスビーに教えるんです。クリスチャンになった彼女は、彼女を盲人にしてしまった医者が、心を痛めていたということを知り、自伝に次のように書きました。
「もし今、私が彼に会うことができたら、伝えたいのです。私の目を見えなくしたことで自分を責めないでください。私は見えないことを通して多くのものを見ることができ、神への讃美を歌い、他の人々を励ませる者にしていただきました。私は世界中で一番幸せな者だと思っています。今しばらくは肉眼で見ることはできませんが、天国に帰ったその時、私はこの目で最初に救い主イエス様を見ることができます。神はすべてを働かせて私たちに益としてくださいます。この神の愛に満たされて、私は讃美しつつこの世の旅路を歩んで行きたいと思います」いかがでしょう。全盲の人は多くいることでしょう。しかし彼女は、人を恨まず、自己憐憫にならず、感謝して人生を歩んだのです。彼女の宝物は、その練られた品性、人格なんです。
苦難の中でいのちが現れる
3つ目のポイントでメッセージを結びましょう。苦難の中でいのちが現れる。ということです。私の友人のIさんは、父親が難病を患いました。全身の筋肉が徐々に動かなくなり、最後は心筋が停止して亡くなるという病気で、特効薬はありません。お父さんは塞ぎ込み、アルコールに依存するようになります。そんな時、婚約者のお父さんから、同じ難病を患っているクリスチャンのKさんを紹介されて会いに行ったそうです。そうするとKさんは「私はVIPな人生を送らせていただいています。本来私が会いに行かなければならない人が、会いにきてくれるんですから」とか、「体がどんどん不自由になっています。確かに不便ですが、不幸ではありません」と笑顔で話されるではありませんか。その時、Iさんは、Kさんの中に、いのちを見たのです。体は病気です。動かなくなっていきます。しかし、その苦難の中で、Kさんの中に躍動するいのちを見たんです。私たちは皆が難病ではないでしょう。しかし、皆が必ず、体は衰え、死を迎えるようになります。しかし、このキリストのいのちは、死にゆく苦難の中で輝くのです。パウロは、このキリストいう宝を、自分の体という壊れやすい土の器の中に入れていると語りました。あなたはいかがですか。神が与えてくださった救い主、イエス・キリストを信じられましたか。あなたがキリストを信じるなら、キリストのいのちが、あなたの人生を通して輝くようになります。神は、苦難からあなたを救い出すことができます。また苦難の中で、あなたを守ことがおできになります。そして、苦難を通して、あなたの人格を成長させてくださるのです。どうか今日、イエス・キリストを信じてください。心からお勧めします。
(2コリント4:8-10)