ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
皆様、こんにちは。私は6月にドイツに参りました。
いや皆さん、ドイツの鉄道ってね、あかんでぇ。まあ私が乗ったのは1時間遅れでしたけどね、3時間4時間へっちゃら。館内放送で「ただいま、運転士が遅刻して、こちらに向かっているので遅れます」正直に言うなあ〜ってねもう。
しかもね、14号車あるのに13両編成なんですよ。13号車ないんです。不吉やから。日本人、4っていうのをすごく嫌がるじゃないですか。大阪公立大学医学部附属病院ってあるじゃないですか。4階、病室ないんです。手術室や。もっとやばいやないかと。
まあ皆さん、私たち、なかなか死という問題についてはね、日頃考えないんじゃないでしょうか。人生も締め切りがあるものだと覚悟することによって、優先順位の高いものはいったい何なんだろうということを考えることができるんじゃないかと思うんです。私は大阪教育大学というね、国立の大学に入ったんですが、バイブルクラスというのを作って、まあいろんな方々が来てくださったんです。
横浜からわざわざ大阪の大学に進学したクラスメイトがいたんです。女性でした。4ヶ月バイブルクラスに参加してくれたんです。ところが、いよいよ夏休み近いというふうになった時にね「不愉快な気持ちになるんで、行きたくない」「何が不愉快だったんですか?言ってぇ」っていうふうに言ったら「高原君、あなた、二言目には、『偶像を拝むのは創造主に対する罪だ』というふうに私に言うけど、私のお父さんは僧侶です。横浜でも指折りの由緒あるお寺の一人娘が私です。私は、あなたが言うところの偶像を拝む行為によって、この大阪まで勉強にやらしてくださってるんです。だけど、あなたの言ってることを聞いてると、まるで私の大事な父親が否定されてるように聞こえるから、そんな話はもう聞きたくない。不愉快ですから!」って言ってね「そうだったんですか…。他にありますか?」って言ったらね「いくらでもあるわよ!」って言ってね。もうね、人間サンドバッグ。ボコボコにやられてですよ。
イエス・キリストに祈る
はじめはね、こうやってこうやって聞いてるうちに、だんだん腹立ってきたんです。なんでここまで言われなあかんねんと。というのはね、聖書が語ってるんです。偶像を拝むというのは、自分に対する侮辱でもあると。それは私が言ってんじゃなくて、聖書が言ってる。聖書が言ってるのに、なぜ私が責められなければならないんだという「今、私に言ったことね、全部ね、イエスに言えよ」と。そしたら、彼女がね「そんな失礼なことできません」って言うんですよ。「俺やったら、ええんかい!」と。で、実はなんでそんなことを彼女が言ったかというとね、高校3年間ミッションスクールに通ってるんですよ。イエス・キリストがどんな方であるかということは、知識としては彼女は知ってたんですね。だから「あのイエス様にそんな失礼なこと言うことできない」「でも、聖書見るとイエス・キリストという方は、クリスチャンの主である前に、罪人の友だと書いてあるんです。遊女や取税人やアウトサイダーみたいな人たちが、イエス・キリストと一緒に食事をしている場面がいっぱいあって、この方は罪人の友だから、あなたがその自分のスタンスのままぶつけても聞いてくださると思うよ。だから、それをそのままイエスに祈ったらいい」って言った時に「祈ったらクリスチャンになっちゃうじゃないの」と「ならんといたら、ええやん」と。
でね、折衷案です。「こう手組んで、目をつぶったら祈りになるから、気をつけして、目開けて祈る」って言うんですよ。「ご勝手に」言うてね。そこから彼女がね、イエスに話し出したんです。途中でね、笑い出したり、泣き出したり、もうどうなるかと思いました。でもね「イエス様、私は父を尊敬しています。もし、私がクリスチャンになってしまったら親不孝することになります。私は父を悲しませたくありません。でも、あなたのことも悲しませたくありません。私はどうしたらいいのかよく分かりません。何とかしてください!助けてください!」って言って。まあ20分程でしょうか。わだかまっているものを吐き出すだけ吐き出したら「ああ、すっとした!」って言ってね、そのまま去って行ったんですね。
しばらくして、学内でばったり会ったので「あの〜」って言ったら「あっ高原君、私、イエスを信じたから」って言うんです。あんなんでいけるんかなぁと不安にはなったのですが、いや本当に内側から変えられてたんですよね。そしてそれから、またバイブルクラスに来てくださるようになり、いよいよ夏休みに入る直前「両親に自分がクリスチャンになったことを告げるので、それ聞いたら両親どんなに悲しむか分からない。私も勇気がない。だから、みんな祈ってね」って言ってね。よく祈りました。
彼女のお母さん
夏休みが終わって彼女がやってきたんですが「お父さんには言えなかった」って。「でもお母さんには言った」そしたら毎月一回新幹線乗って、大学のバイブルクラスにお母さんが通い出したんです。偵察に来るみたいな感じです。ところがねこの方いい方でね、高級なお菓子持ってくるんですよ。みんなもう、わーこんなん食べれるんやということで、だんだんだんだん打ち解けて一年半ほどですかね、はじめは警戒していたのが聖書の質問をなさるようになったんです。まあ考え抜いてる人でないと思いつかないような質問をたくさんしてくださって、もう私たちもそれが嬉しくてね。
ところがある時、ピタッと来なくなったんですね。胃がんでした。しかも末期です。私、それ聞いた時ですね、横浜まで行ったんです。ベッドに寝てらっしゃったんですけれどもガリガリで「高原君わざわざここまで来たのは聖書のお話をしにきたのでしょう。神様のことばを受けれるのですから、寝ながら聞くなんてそんな失礼はできません」って言ってね、正座して聞くんですよ、話を。「Kさん、すべての人は神様の前に罪人なんです。でも神様はね赦すことに決めました。でも、ただ赦したのでは正義を踏みにじったことになるので、罪の赦しの根拠を与えるために、全く罪のない神のひとり子、イエス・キリストが十字架にかかって、お母さんの身代わりに死んでくださったんです。そして、キリストは死んで3日目に死を突き破って復活しました。それを目撃した弟子たちが、確かなものとしてそれを伝えたんです。もし、お母さんがイエス様を信じたらすべての罪が赦されて、神の子とされ、永遠の天国に行くことができます。お母さん、いかがですか。イエス様信じませんか」って。黙ったんですね。
イエス・キリストを信じる
その時、「今日はここまでにしてくれないか」という声が聞こえたんです。なんとパーテーションの向こう側にね、ご主人いたんです。禅宗のお坊さん。出た〜っみたいな。いるならいるとひとこと言って〜みたいな。それで「はい。ここまでにします」って言ってね、それからね「高原君、よく来てくれたね。中華街へ行こう」言ってね。食べ歩きました。でね、俺はこんな中途半端でいいかと責められながら、食べるシュウマイの美味いこと。それからひと月後にね、ある宣教師の方が訪ねてくださったんです。お母さんね、自分のご先祖に対して申し訳ないことになるんじゃないかという心配があったんですが「ごく最近のご先祖とは違う信仰持つかも分からないけど、日本人の一番根っこの人たちは皆、バイブルの神を信じていたのです。イエス様はあなたのために愛して、たった一つしかないいのちをくださったのですから」「分かりました」って言ってね。イエス・キリストを信じたんです。
それから約一年ほど経った時ね、ご主人が末期がんだったんです。その時にも、その宣教師がわざわざ訪ねて行ってね「あなたの奥様は悟りを開いて死を迎えたのではなく、神が準備してくださった救いの中に入りました。あなたはどうしたいですか?」と。そしたら、その禅宗、長い間修行を積んだこの方がね「私の修行や研究成果は、彼女の心を鎮めることができなかった。死に慄いている自分の最愛の人の魂を、私は支えることはできなかった。彼女を支えたのは死んでよみがえったイエス・キリストという歴史的事実だった。私は妻が行った所に行きたい」と言って、イエス・キリストを信じる信仰告白の祈りをしたのです。
ぜひ、このキリストを信じてください。永遠のいのちを受け取ってくださいますように心からお勧めいたします。
(ヨハネ14:1)