#1261 復活を信じられないあなたへ

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。尼川匡志です。

さて、私は28歳の時初めて福音を真剣に聴きました。信じるためではありません。否定するためでした。私の妻は、私に福音を信じてほしいと心から願って、その機会をつくったんですね。当時の私は大の宗教嫌いでした。それは周りの状況が変わっていないのに、あるかないか分からない神を信じ、平和になった幸せになったと思い込んでいるように思ったからです。特に神の奇蹟を信じる人にはうんざりでした。現実を直視できない人たちだと思ったんですね。この時、私と同じように聖書の話を聴いていた人たちが、うなずき感動しながら聴いているのを見た時、思い込みで生きていたのは彼らではなく実は私の方だったと気づくのにそれほど時間はかかりませんでした。聖書には奇蹟の話がたくさん出てきます。「聖書に奇蹟がなかったらもっと信じやすいのに」そう言った人がいました。私もその一人だったんですね。自分の頭で理解できないことは作り話で嘘だと考えていたんです。大きな間違いです。聖書の神は創造主です。宇宙を造り、太陽を造り、地球を造り、人間を造った神です。造られた被造物にすぎない私の頭で理解できないからと言って、間違いだと考えるのは愚かです。私には相対性理論も理解できないんですね。人間の体の不思議や、命の神秘も分からないんです。そんな私が理解できるかどうかで神の奇蹟を論じるのは百年、いや一億年早いと思いますね。さて、イエスにまつわる奇蹟の中で最も否定されることは、乙女マリアから生まれたことと復活の二つです。イエスの生涯の最初と最後の否定なんですね。今日はこの最後の復活を三つのことを見ながら考えたいんです。
一つ目は十二弟子の一人でさえ信じられなかった復活。二つ目はイエスの深い意図。そして三つ目、復活がなければキリスト信仰はないということです。

弟子でさえ復活は信じられなかった

それでは一つ目、十二弟子の一人トマスでさえイエスの復活は信じられなかったんですね。十字架にかかったイエスは、息を引き取り墓に葬られました。しかし、三日目に死を突き破り復活されたんです。弟子たちはこの時ユダヤ人指導者を恐れ、最後の晩餐の部屋に鍵をかけ隠れていました。その部屋に復活のイエスが突然現れたんです。弟子たちの驚きは想像もできませんね。同時に大きな喜びだったと思います。しかし、どういうわけかそこに弟子のトマスがいなかったんです。トマスが部屋に戻った時、仲間たちは興奮し口々に言っていました。「イエスは復活された!主は生きておられる!」トマスは思いました。そんなバカなことがあるものか。彼は言いました。「私は十字架の釘の跡に指を入れない限り信じない」トマスはイエスの行った奇蹟を見てきた一人ですよ。ツァラアトを癒やし、生まれつきの盲人の目を開いたことも、五つのパンで五千人を満たした時も、水の上を歩かれたことも、ナインの女の息子を生き返らせたこともその場で見ていたんです。その彼でも復活は信じられなかった。生きている時の奇蹟は信じられるんですが、死ねば終わりだと考えていたんですね。それが彼の、いや私たちすべての人間の考え方なんです。

イエスの深い意図

二つ目を考えます。イエスの深い意図についてです。イエスは弟子たちに現れる時、トマスがその場にいないことを知っておられたはずです。分かったうえでこの時を選ばれたんですね。それは信じるということがどれほど大切であるかをトマスに、そして私たちに教えるためだと思います。人間の常識では復活の奇蹟は受け入れることができないんです。理解できないからです。しかし、理解できないことを信じる時、その信じた事実が私たちのものになるという不思議なことが起こるんですね。神は信じることでつながり、一つとなる道を私たちにつくってくださいました。神と人間も、人間と人間の間でも、そのことは成立するんです。あなたの周りに、もしあなたと考えや行動が違う理解できない人がいたとしたら、一度その人を信じてみてください。そうすると、その人とのつながりができ、理解することができるかもしれません。信じないなら何にも変わらないんです。神も同じです。私たちはこの方を絶対に理解することはできません。処女から生まれたことも、神であるのに迫害されたことも、十字架で全ての人間の罪を贖われたことも、復活されたことも理解できないんです。しかし、信じる時、その一つ一つの真実が私の心につながっていくんです。本当に不思議なことです。イエスは八日の後、トマスに現れて言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」いい加減なものを信じることは間違いです。しかし、トマスはイエスの奇蹟を見てきたんですね。それでも神が示されたことを退け、自分の理解にとどまろうとしたんです。あなたはどうでしょうか。もし自分の理解や納得にとどまるなら、神の真実はいつまでも見えてこないんです。自分の思い込みにとどまるのではなく、そこから出て、あなたの理解を超えた神を信じることが実は大切なんです。

復活なしにキリスト信仰はない

三つ目、復活がなければキリスト信仰はない。イエスの復活が事実なら、この方は過去の偉大な人間なんかではありません。今、天におられる神です。復活がないならイエスはただの偉人にすぎません。私たちはこの復活が真実かどうかをどうすれば分かるんでしょうか。私はイエスの十字架以降の二千年間の人類歴史を見れば分かると考えています。この聖書はありとあらゆる言語に訳され出版され、一部の国では憲法に取り入れられているんです。信じた人たちは差別の撤廃に奔走し、虐げられている人たちの解放に命を投じ、どん底の人たちを立ち上がらせ、多くの人たちの人生を変えてきたんです。この事実に目を留めるべきではないかと思います。答えはおのずと見えてくるからです。神はあなたにこの事実を知って欲しいんですね。それによってあなたの人生が祝福に変わるからです。もしあなたが自分の思い込みにとどまるのではなく、そこから出ようとするなら、神は間違いなくあなたを導いてくださいます。イエスは言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」トマスはイエスを見て信じたんですね。このメッセージは、イエスの復活を見ていないあなたに向けられた神のメッセージなんです。見ないで信じる幸いな人生に踏み出してください。心からお勧めしたいと思います。


使用CDジャケット
ノア:信じます

今日のみことば
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
(ヨハネ20:29)