ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、先日私はマーケティングの天才、森岡毅さんの本を読みました。
この方の会社は、瀕死状態の企業を生きかえらせる戦略を授けるという仕事をなさってるんですね。あるとき、西武園ゆうえんちから仕事の依頼が来たそうです。創業70年の古~い遊園地です。乗り物も40年前の観覧車をはじめとして、どれもこれもが時代遅れのものばかりなんですね。
しかも、関東圏にはディズニーランドというテーマパークの王者がいます。年々お客が減っていって、もはやこのままでは倒産も時間の問題です。ところが森岡さんたちのアドバイスで、この遊園地はみるみるうちに元気を取り戻し、なんと来園者はコロナ前と比べて13倍に膨れ上がってるんですね。いったい何をしたんでしょう。「古い」ということを逆手に取ったんですね。
つまり「ここに来れば古き良き昭和を味わえる」、これをコンセプトにしたんです。入口に入って一発目に、昭和の商店街を復元し、そしてそこにいる人々はみな、昭和の格好をした人々が昭和のノリでアトラクションを繰り出すんですね。そういうテーマであるので、築40年の観覧車は時代遅れではなく、時代とぴったりマッチした乗り物になるんです。見事ですね。
弱気になっていた企業に、昭和復元の投資をする勇気を与えたのは、精神論ではありません。確たる勝算を示すということであったのです。それと同じように、聖書はどんな人の人生にも勝算が十分あるということを知らせている、神の約束のことばなのです。
今日は聖書のことばから、恐れなくてもよい理由を考えてみましょう。聖書にこう書いてあります。
「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」
ここから、恐れずに勇気をもって生きていく二つのポイントを考えてみましょう。
復活のキリストという勇気のエネルギー
第一に、死に打ち勝った復活のキリストとつながることで、人は恐れの中から立ち上がる理由を見いだせるということです。
ゲーテの代表作に「ファウスト」があります。その初めの方に、こんな話が出てくるんですね。あらゆる学問を究めたファウスト博士は、「ただ道理が分るというだけでは、仕組みが分かっただけでなんとむなしいことか。自分が知りたいのはこの世を成り立たせている奥の奥にあるものなのに、それが分からない。」と言って、絶望のうちに毒杯をあおって自殺しようとするんですね。まさにそのとき、窓の外から教会の鐘の音が聞こえてくるのです。実はその日は復活祭だったんですね。
彼がまだ幼かったころ、教会に通っていました。そしてそこでキリストの話を聞いたことを、ふと思い出すんです。キリストは復活しました。「人生最大の難問を解決した方がいるとするなら、今ここで自分として解決がないといって嘆いて死ぬのは、早まり過ぎた判断ではないのか」、それで彼はいったん死ぬことを思いとどまるんですね。人生の中では、自分の力を上回るような問題がしばしば起こってきます。しかし、神の力を上回るような問題はありません。人生最大の強敵、死は、すでにキリストが復活することで打ち破られているのです。
このキリストはあなたのために、死んでよみがえられた方なのです。この方とつながるということが、勇気のエネルギーをいただく秘訣なのです。
完全に罪が赦される
第二に、どんな罪人も、キリストを救い主と信じることで、罪赦され、神の子とされるがゆえに、人は恐れる必要がなくなるということなのです。
旧ソ連の作家で反体制のために長い間弾圧されていた人物に、ソルジェニツィンという人がいます。彼の作品「収容所群島」の中に、実話のエピソードが載っています。
モスクワのブトゥイルキという刑務所の中で、板張りだけの床に寝かされていた一人の女性の話です。彼女は、流刑地から脱走して来たロシア正教の司教を自宅に泊めてかくまった、ということを罪に問われ、この刑務所に放り込まれているのです。取り調べの役人たちに対する彼女の態度は、実に堂々としていたようです。このように言ったようです、「私は司教様をお泊めしました。それは罪じゃない。名誉なことです」。
尋問官が「それで彼はモスクワからどこに行ったんだ」と訊くと、「知っていますが、絶対言いません」。実はこの司教は、信者たちの助けですでにフィンランドに亡命していたんです。それを知らない取り調べ官たちは、毎日毎日交代で脅したりすかしたりしたんですね。
しかし彼女は最後まで口を割らず、平然としてこう言ったんです、「わたしを粉々にしても、白状させることなんかできませんよ。あなたがたは上司が怖い、そしてお互いを怖がってる。そして私を殺すことも怖がってる。だって私を殺してしまえば、手がかりがなくなってしまいますからね。でも私は何も怖くありません。今すぐにでも神の前に立てるんですから」。
彼女の勇気の理由は何でしょう。死んで神の前に立ったとき、少しも恐れる必要がないということであったのです。なぜ恐れる必要がないんでしょう。キリストの身代わりの死を信じていたからです。
自分の罪、咎、失敗のすべては、キリストがすべて永久処分してくださったと、彼女は信じていたからです。そしてこのキリストに対する信仰を表明する人を、神は、義人と認めてくださるのです。義人とは完全に罪赦された人のことです。なぜならキリストを信じることを、神は、キリストの正しさを身にまとった者とみなすと約束しておられるからです。
キリストの義のユニフォーム
以前、女子バスケットボールの国際試合でアルゼンチン代表がユニフォームをまちがえる、という失態をやらかしたことがあったんですね。着るべきユニフォームを着ないで、対戦相手のコロンビアのユニフォームと同じユニフォームを着て来たのです。
しかも着替えを持って来なかったのです。一体どうなったでしょう、失格負けです。試合をさせてもらえずに、一回戦退敗が決まったのです。
もし私たちが罪人のまま神の前に立つなら、即失格です。しかし私たち一人ひとりに、神は義人のユニフォームを用意してくださったのです。イエス・キリストを信じることが、この義のユニフォームに袖を通すということなのです。
いかがでしょう。あなたもこのイエス・キリストを信じ、そして恐れを取り去っていただき、勇敢な人生の中に是非お入りください。心からお勧めいたします。
(へブル10:38-39)