#1119 心の中の物語とイエス・キリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

何年か前に本屋大賞を受賞した作品に、『ハリネズミの願い』というのがあります。先日買ってあったのをようやく読んで、そして心に大変残りました。
森の中にハリネズミがいるんですが、彼は友達が1人もいないんです。それで森の中のすべての動物に、招待状を送るんですね。「親愛なる動物たちへ。僕の家に遊びにくるようみんなを招待します。でも誰も来なくても大丈夫です。」彼は自信がないので、余計な一行を書くんですね。そして案の定、誰も彼のところには来ないんです。
そのうち彼は、今は訪ねてこない動物の客達が、万一やってきたらどういう展開になってるのかということを考えて、不安でいっぱいになるんです。もしこの小さな家にゾウが訪ねてきて、お近づきのしるしにと言ってダンスでも始めたら家潰れちゃうんじゃないかとか、いつも怒ってるヒキガエルが来たら、2人っきりになった時に喋ることを思いつかずに気まずい雰囲気の中で収拾つかないぞとか。
自分が招いたがために、行きたいと思う者と行きたくないと思う者の間に諍いが始まって、今森の中で大変なことが起こるんじゃないかとか。まあ、いろいろ妄想するんですね。このハリネズミはいつも永遠と果てしなく否定的な空想を紡ぎ続けるんです。

人は自分の物語を生きる

ところで、この本は大人向けのもんなんです。作者はこの作品を通して何を言いたいんでしょう。おそらく人はみな、自分の物語を生きていると言いたいのではないかと、私は考えました。このハリネズミは自分はつまらんやつで、自分みたいなやつと一緒に過ごしたいと思うような者はどこにもいないという物語を生きています。なので、招待状を送って誰も来ないとき、「ほらみろ、やっぱり僕と一緒にいたいと思うような者はどこにもいないんだ。思ってた通りだ。それに実際来られたらトラブルが起こってたかもしれないし、まあこれでいいじゃないか。」と自分慰めるんですね。そして最後に、いろんな妄想の果てにこう言うんですね。「今やっと自分の本心がわかった。結局僕は、誰にも来てほしくなかったんだ。」これで自分の物語が、益々強固なものになってきます。ところがそうやって自分を納得させたその直後に、思いがけなくもリスが来るんですね。全く予期していませんでした。「いや〜なんとなく君が喜ぶかもしれないと思って」その訪問はごく自然でささやかなものでしたが、先ほどまでハリネズミが心配していたことは何一つ起こりません。リスは楽しそうに時間を過ごして、最後に一言こう言うんですね。「また会おうね」この一言が、ハリネズミの心の中に揺るがない物語となっていた誰も友達になってくれないという信念が、崩れ始めるんですね。
ところで人間はみんな、何かしら自分の物語を生きているように思うんです。ハリネズミのように、自分は誰からも愛されるはずがないという物語の人もいるでしょう。そういう人は、たとえ愛されてもなかなかその愛を受け取ろうといません。疑うからです。愛されるはずがないという自分の信念と合致しない事実に対しては、物語の方を疑うのではなく事実の方を疑うのです。

歪んだ物語は幸せにできない

ある方は罪責感の物語を生きてるように思います。過去に取り返しのつかない罪を犯した人は、その後悔から逃れ、その恥ずかしさを隠すために人生の大半を費やすのです。罪意識に駆り立てられている人々は、特定の思い出に支配されているように思うのです。
この方々は過去に自分の未来をコントロールさせています。自分の成功を自らぶっ潰すようなことをしたり、見す見すチャンスをわざと見逃したりします。自分が損害を受けることで、無意識のうちに自分に制裁を加えているような気がするのです。またある人々は、怒りに駆り立てられて生きていますね。この人々の物語は、自らを怒りの魔王になって生きることです。痛みを握りしめ、そしてそれを繰り返し思い返すなかで自分が傷つきます。そしてそこから出ようとしないのです。怒らずに生きることはできないという物語のなかを生きています。
しかし決してそんなことはありません。自分が自分の心の痛みにこだわるのでない限り、過去に傷つけられた人によってこれからも傷つけられ続けるということはないのです。過去は過去です。終わった事です。またある人は、人より何かを得ることが人間を幸せにするという物語を生きています。
実は私はかつてそうでした。この物語に生きると、満足を知らない人生になります。より多く持つことで、より幸せになり、より偉くなり、より安心感が深まるだろうと考えますが、それは誤解です。何かを持つことは一時的な幸福感しか得ることができません。どんなにすごいものを持っても、持った瞬間の喜びがピークで、必ず色褪せてきます。そしてもっと新しくて、もっと大きくて、もっと綺麗ななにかを求めて彷徨うんですね。こういうものはみんな歪んだ物語です。本当に人間を幸せにする事はできません。

イエスによって人生は変わる

しかしイエス・キリストは十字架にかかる直前、弟子達にこのように語られているのです。「人が自分の友のために命を捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません」
キリストの弟子達のなかには、心配性の物語の人もいました。また疑り深い物語を生きている人もいました。またまもなく、とんでもない罪を犯すことになる人もいました。他の弟子達を押さえつけて上になることによって幸せになる、という物語を生きている人もいました。みんなそれぞれに間違った、歪んだ、不健全な物語の持ち主ばかりだったのです。
しかしキリストはそういう歪な人生観の弟子達にむかって、友と呼ばれたのです。否定的な人生観で、失望の予行演習を繰り返すハリネズミがリスの友情によって変わり始めたように、神から離れて沈んだ、歪んだ世界観しか持っていない弟子達を、キリストは命を捨ててもいいという愛で、大切な友だと呼びかけてくださったのです。そしてキリストは実際に、十字架にかかって命を捨ててくださったのです。そして3日目に復活した後で、キリストを信じる者に人生を変える力を授けると約束してくださったのです。
幸いな人生を生きるには、心のなかの物語を幸いな物語にチェンジする必要があります。キリストだけがそれをあなたにもたらす事がお出来になります。
ぜひあなたもキリストを信じて、満ち足りた、健全な、キリストに似せられていく人生の中に、ぜひお入りください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
レーナ・マリヤ:キリストには変えられません

今日のみことば
人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
(ヨハネ15:13)