おはようございます、高原剛一郎です。
元アメリカンフットボールのプロ選手で、後に牧師になったケン・ハチャーソンという人物がアメリカにいます。
彼は本の中で絶望することの恐ろしさについて書いています。
昔シカゴの治安が悪かった頃、ある少年が通りがかりの車から撃たれて重傷を負うのです。しかも、生涯治らない重い後遺症を背負うことになるのです。
ところで、近所に住む人々は皆んな犯人が誰かを知っているというのです。しかし、誰一人警察に通報しません。
被害者の母親も毎日通勤のためこの犯人のいる家の前を通っているのです。しかし、息子のために訴えようとはしません。報復が恐ろしいからです。
犯人のグループが後で仕返しに来ることが怖くて、みな口をつぐんでいるのです。
この街には希望がないのです。正義が行われるという希望が見当たらない街なんですね。
ブレない生き方のための希望
もし私たちが希望を無くせばこれと同じようなことが起こります。
長いものには巻かれ、不正には目をつぶり、悲しみも押し殺し、ただ敗北主義に打ち任されて、うなだれて生きるだけです。
こんなことはあってはならないことです。しかし、現実にはあり得るのです。私たちがブレない生き方をするためには本物の希望が必要だと思うのです。
ところで聖書にはこのように書いてあります。
神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
ここにはキリストの復活によって、生ける望みが与えられたとメッセージされているのです。
なぜキリストの復活が生ける望みとなるのでしょう。3つのポイントで考えたいと思います。
復活による赦しの完成の証明
第1に、キリストの復活は罪の赦しの完成を証明するものだからです。
キリストはご自分の十字架の死を罪人の身代わりの死だと語っておられました。それは本当にそうなのか、単にそうだと本人が思い込んでいただけなのか、これをどのようにして知ることができるでしょう。復活することによって証明できるんです。
もし、キリストが処刑された後、死んだきりで終わっているならキリストはただの人ということになります。しかし、死後によみがえったということになれば、キリストは単なる人ではない、ご自分の主張される通り、人類の救い主となるために来られた神の御子ということになるのです。
ところで、家やマンション、自動車など高額な支払いをした時には、必ず印紙のついた領収証をもらうことになっています。それは後になって払った払ってないともめないためです。高額な支払いを受けた側は確かに受け取った証拠として領収証を発行するのです。
キリストは十字架の上でご自分のいのちという高価なものを、あなたの罪を償うための代金として神に支払ってくださったのです。
そして、神は確かにそれを受け取った証拠として三日目の復活をお与えになったのです。キリストの復活は罪の赦しの完成を証するものなのです。
復活によって死は打ち破られた
第2に、キリストの復活は死を打ち破る力をキリストが持っているという証明なのです。
人間にとって最も大きな問題は死です。死にはどんな権力者も太刀打ちできません。死ほど強力な力はないと言ってもいいでしょう。
ところがキリストはこの死を打ち滅ぼされたのです。そして、死と死後の裁きを打ち破ってくださった方なのです。
死よりも強い方を信じるなら信じた人も死を恐れる必要がなくなります。何故ならキリストはキリストを救い主として信じる人を死後天国に連れて行ってくださるからです。
ところで私はキリストの復活を見たことはありません。しかし、信じています。誰の言葉を信じているかというと、キリストの復活を見た人の証言を信じているのです。
キリストの復活を見た人とは、今日読んだ聖書の箇所を書いたペテロです。
ペテロはよみがえったキリストを目撃し、語り合い、一緒に食事をしたり、共に歩んだ人なのです。
私は彼の数々の証言とそれを伝える生き方の中にこの証言の真実性を認めざるを得ません。
あなたは如何ですか?キリストはまさに死からよみがえった方なのです。
栄光のからだが与えられる
第3に、キリストの復活は、キリストを信じる者たちも復活するということの証明なのです。
実はキリストは復活した後40日間にわたって弟子たちの前に姿を現し、そして、オリーブ山という山から天に昇って行かれました。
しかし、天に昇ったきりではありません。また再び空中までやって来られるのです。
そして、その瞬間、すべてのクリスチャン達を空中に引き挙げます。クリスチャン達はキリストの復活の体に変えられるのです。
今、私たちが持っているこの体は老います。病みます。傷みます。衰えます。死に向かって不可逆的に近づいているのです。永久に生き続けることができる体ではありません。
しかし、キリストが再び来られる時には、新しい体が与えられて復活することが決まっているのです。
その体はもはや老いることもなく、朽ちることもなく、弱ることなく、病むことなく、罪を犯すことがなく、神の栄光を完全に反映する体なのです。
すべての病や欠損とは全く無関係の栄光の体です。その体をもって天国に行くのです。
キリストが支配する正義の世界
私は先日あるホテルで聖書の講演会を行いました。
終わった後で一人の紳士が来られ私に質問なさったんです。それは、ルターの言葉についての質問です。
「たとえ明日世界が滅びようとも私は今日りんごの木を植えよう。」という言葉です。
どんなことが起こってもビクともせず、パニックにならず、泰然自若たる態度をとり続ける。なんて心に響く言葉かと思うが、しかし、やっぱり釈然としないと言うんですね。
というのは、明日世界が滅んだら植えたりんごの木もまた滅びるわけで、意味のないことをやり続けることになってしまう。
どうして明日世界が滅びても一貫した生き方を続ける意志を保つことができるんだろうかとおっしゃるんです。
実は、この言葉には前段があるんです。それはこんな言葉です。
「死は人生の終末ではない。生涯の完成である。希望は強い勇気であり、新たな意志である。」
この言葉に続くのが「たとえ明日世界が滅びようとも今日りんごの木を植える。」なんですね。
つまり、明日世界が滅んだ後に続く世界が待っているということなのです。
この世が終わりを告げた後、キリストが支配する世界がやって来る。そこでは悪がまかり通ったり、傍若無人たる独裁者はもういません。
そこには正義と愛の王であるキリストがいて、かつてこの地上でしたひとつひとつの正しい行いについても全て報いてくださるというのです。
つまり、泣き寝入りは泣き寝入りで決して終わらないよというのです。
神の支配の到来を待ち望み、ブレずに真っ直ぐに生きたことについて、神は必ず報いてくださるのです。
この正しい審判者の存在が不正がまかり通るこの世で人を正気に保って、一貫した行き方に導く強い動機となるのです。
どうぞ、あなたもよみがえられた救い主イエス・キリストを信じて、生ける希望をいただいてください。心からお勧めします。
(Iペテロ1:3)