ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、「100日後に死ぬワニ」という4コマ漫画を読みました。この作品は去年の12月12日から漫画家のきくちゆうきさんが、ネット上に毎日一話づつ公開してきたものを書籍化したものです。
主人公の雄のワニが死ぬまでの100日間、カウントダウンしていくという方法で描かれているものです。このワニはカフェでバイトをしていて、職場の先輩に片思いの恋をしたり、友達のネズミとラーメンを食べに行ったり、田舎のお母さんと電話で話をしたり、電車でおじいさんに席をゆずったり、テレビを見たり、ゲームをしたり、なんにもしないでボーっとして一日を終えたりします。4コマ漫画なんですが、起承転結がありません。ありふれた毎日が淡々と描かれていくのです。ただし4コマ目の下に、「死ぬまであと何日」と記されているのです。
あるときワニは、テレビショッピングで安眠できる布団を見て申し込みます。ところが人気が高くて、生産が間に合わず、商品が届くのは一年後になると言われてしまうのです。ワニは「一年なんてすぐに来るよ」と思い、注文します。「あー、布団がとどくのが楽しみだ」と言いながらです。読者は皆、そのころにワニは死んでいないということを知っています。無邪気なワニの喜びは、とても哀れに思えてくるのです。いよいよ99日目になったとき、全く普段通りです。次の日、花見に行くことになっていて、ワニも友達も皆ワクワクしています。とうとう100日目を迎えたその日、友達は皆花見を楽しんでいます。「ワニが来るの、遅いなー」と言いながら。その日ワニは、花見会場に向かう途中で死んでしまうのです。
必ず迎える死の恐怖
この最終日には、この4コマ漫画をフォローしていた人たちは、200万人もいたそうです。作り話とは分かっていても、死の問題を考えずにおられなくなっていたというのです。いいワニだったので、あっけなく死んでしまったことに、衝撃を受けた人も多かったようです。「かわいそうに」という気持ちが湧いてくるんですね。しかし「かわいそうに」と人ごとのように見ている読者たちも、いつかはこのワニのようになる日がやって来るのです。
人は、思いがけないときに死を迎えるのです。興味本位で見ていた小学生が、この漫画を通して死の恐怖に目覚めてしまい、夜も寝付けなくなったというコメントを読んで、私は考えさせられました。子供でも、大人でも、死と本気で向き合ったなら、誰もが日ごろは忘れている死の恐怖を覚えるのではないでしょうか。この恐怖を、恐怖と思わなくなるために、人はいろんなものを編み出しました。お酒やギャンブル、瞑想、宗教、哲学など。そういうものは恐怖をなだめるために、役に立つことがあります。そしてそれをある意味、無くしてくれるものにもなりえるでしょう。しかし、死の恐怖へのコントロールにはなっても、死そのものの解決とはいえないのです。
死の根本的解決
何かの病気や症状が出たとき、治療には二種類あると言われています。それは対症療法と、病原(原因)療法です。対症療法は症状だけを抑える治療法です。下痢になったら下痢止め、熱が出たら解熱剤、咳が出たら咳止め薬、鼻水出たら鼻炎薬、症状だけを抑えるという治療法ですね。しかし、そもそもその症状を引き起こしている、別の原因があるやもしれないのです。これに対して、根源的な原因となっている病気そのものをたたくのが、病原療法です。
死の恐怖、あるいは死の恐怖心そのものは哲学で何とかなるかもしれません。しかし死そのものの解決ではないのです。聖書は死そのものの解決を知らせている、唯一のメッセージです。聖書にこう書かれています
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
死の原因は罪
今日は二つのポイントでお話しいたしましょう。第一に前半のポイントは、死の原因は罪だということです。ところで、罪とよく似たことばに「穢れ」という言葉がありますね。罪、咎、穢れ、の三点セットです。民俗学者によると、日常生活を活き活きと生きていくいのちのことを、古い日本語で「気」と言ったそうです。この気の状態が枯れていくことを、気が枯れる、穢れる、と言うようになったというのです。つまり穢れとは、いのちを枯らすものだというのです。
聖書が語る罪は、いのちの源である神との関係を切ることを言います。いのちのルーツと断絶した結果、人は、神のいのちの供給を受けることができず、死ぬものとなってしまったのです。そしてその死は、単に肉体だけの死では終わりません。人間には一度死ぬことと、死後に魂がさばきを受ける、ということが定まっているのです。
キリストによる身代わり
しかし第二のポイント、後半です。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。キリストは、私たちと神との間に立ちふさがっている罪という壁を打ち壊すために、この世界に来てくださったのです。具体的には人間の罪を永遠のかなたへ持ち去るために、十字架にかかり、ご自分の上に罪を背負って、あなたの身代わりとなって死んで下さったのです。そしてこの身代わりの死を神が認めた証拠して、キリストは死後三日目によみがえられたのです。弟子たちはその目撃者となり、キリストの復活をエルサレムから始まって、世界中に宣べ伝えたのです。
ところで、神はなぜそのような救いを与えてくださったのでしょう。ご自分のひとり子を犠牲にして、永遠のいのちを与えようとされた理由は何なのでしょう。それはあなたに対する愛です。あなたのことを本当に大切にしてくれる人とはどんな人ですか、口先で嬉しがらせてくれる人ですか、あなたをそつなくエスコートしてくれる人でしょうか。それも大切にしてくれる人かもしれません。しかし、一番説得力があるのは、あなたを、どこにも代わりのいない存在だということを、行動で教えてくれる人だと思うのです。キリストはことばでも愛し、奇跡でも愛を見せましたが、何より十字架の上で命を捨てることで、あなたへの愛を明らかにしてくださったのです。どうぞあなたも、この死んでよみがえったこのイエス・キリストを信じてください。死んでも永遠の天国に行くいのちが与えられます。キリストはあなたの帰りを、首を長くしてお待ちになっておられます。このキリストを是非信じて救われてください。心からお勧めします。
(ローマ6:23)