
ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
昔、熊本第五高校に佐藤定吉というクリスチャンの工学博士がいらっしゃいました。彼はよく信仰について学生に話をしたそうです。ある時、一人の学生が質問しました。「先生。人生に信頼できる方を持つことが必要だというのは、最もなことだと思います。でも、私は理系の人間です。天地万物の創造主だという神を、実験による証明で見れるようにしてください。見て確かめない限り、信じられないんです」「よーし、見せてやろう。ただし、その前に私も見たいものがある。私に君を見せてくれないか」
「えっ、僕ですか。先生これですよ」彼はそう言って、自分の鼻を指さしたんですね。「いやそれは君の鼻だろう。私は君というものを見たいんだ」そこで学生は胸をたたいて「これです」「いや、それは君の胸だろう。私は君というものを見たいんだ」困った学生が言いました。「先生。あるのはあるんですけど、見せられません」博士はうなずいて言ったそうです。「そうだ。それを霊っていうんだ。人間の肉眼では見えないけれど、確かに存在しているものを霊っていうんだ。神は霊なんだよ」
この霊である神さまが、一度人の姿をとってこの世に誕生してくださったのです。この人となった神をイエス・キリストっていうんですね。なぜキリストはこの世に来られたのでしょうか。
悲しむ者は幸いです
同時多発テロが起こった2001年9月11日ですね。約3000人の方がニューヨークのビルの下敷きになって命を失ったんです。その時、たくさんの警察官や消防士の方々も亡くなりました。みんなが一目散に逃げ出しているときに、逆行するようにビルの中へ突っ込んでいった人たちです。
殉職した警官のお葬式の時、当時のニューヨーク市長が語ったメッセージが私の手元にあります。「あの今にも崩れそうなビルに突入していくとき、こんなことを言いながら走っていったと思いますか。『俺たちが救出しようとしている人の中に、黒人は何人くらいいるだろう。白人は何パーセントだろう。ユダヤ人は何人いるだろう』そんなことを言う人は一人もいなかったでしょう。一刻を争う救出のときには、すべての人が等しく尊いのです」
消防士が今にも崩壊しようとしているビルの中に乗り込んでいったように、神は今にも崩壊しようとしているこの世界に、救い主として乗り込んできてくださったんです。それは、ビルならぬこの世界にあなたが閉じ込められ、滅びをただ待っているという現状を、見過ごすことができなかったからです。
さて、キリストはこう語られました。
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」
不思議なことばですね。一般的には悲しみに遭わないことが幸せなことだと考えられているのに、キリストは「悲しむ者は幸いです。」とおっしゃったんです。実はこのことばには少し解説が必要なんですね。キリストは悲しみ、苦しみ、痛みそのものを肯定し、喜んでいるわけではありません。悲しみを「正しい悲しみ方で悲しむ人は、幸いだ」と語っておられるんです。悲しみに正しい悲しみ方と、間違った悲しみ方ってあるんでしょうか。あるんです。間違った悲しみ方、それは、身に降りかかってくる悲しみを持って、自らを打ちのめしたり、神を恨んだり、世間にひねくれたりすることです。
『風と共に去りぬ』という小説の中に、南北戦争に巻き込まれた南部の男が出てきます。彼はとても落ちぶれています。人生に対して投げやりで、チャンスが来てもことごとく見逃します。それを見ていたある男が言う台詞があるんですね。「彼は心をやられている。周りの世界が彼を落ちぶれさせることはできない。彼を落ちぶれさせることができるのは、彼の心だけだ」自分の殻の中に閉じこもって、すねた生き方をしていると、周りの親切が一切目に入らなくなるんですね。
では、正しい悲しみ方の効用とはいったい何なのでしょうか。実は、悲しみには、同じ悲しみを持つ人を結びつける力があるんです。世の中には、同じ趣味を持つ人たちの集まりがたくさんありますね。スポーツクラブや芸能人のファンクラブや、ひいきのチームのファンクラブがそうですね。でも、そういう楽しみでつながるクラブの中で案外人間関係が難しい場合があるんですね。ところが、悲しみを勇気に発展させていく集まりの結束というのは、とてもしぶとい、強いものがあると言われています。
神から離れることを悲しむ
あなたはファイナルステージの会ってご存じですか。これは末期癌を宣告された方だけが入会できる会です。現代医学からは見放された人たちの情報交換の会、勇気づけの会、励まし合うための会なんですね。いのちのかかったその崖っぷちの中でお互いに本当に心に響く言葉の分かち合いがなされています。
また、自殺者遺族の会。アルコール依存症の親を持つ子どもの会。交通遺児の会。悲しみは同じ悲しみに喘いでいる人を助けるときに、自然に癒されていくようですね。そして、悲しみには同じ痛みを抱えている人を結びつけやすくする力が宿っているように思うのです。
ところで、キリストが語られた悲しみとは、どんな悲しみでしょう。それは、神から離れていることを悲しむ悲しみです。自分の魂の親を見失い、自分の人生の意味が見えず、自分で自分の罪を消すことができないということを悲しむ悲しみです。自分のいのちの問題に答えがなく、死の解決を持たず、途方に暮れている悲しみです。自分の力では正しくあり得ないことを悲しむ人は幸いです。なぜなら、そのことをあなた以上に悲しんでいるキリストがおられるからです。
イエス・キリストはあなたの罪をきよめ、赦し、完全消却するために十字架にかかって死んでくださった救い主です。そして、三日目によみがえって、今も生きている方なんです。喜びの絶頂や有頂天のときに、神を見出す人はまれだと思います。神なしに十分自分は幸せだと思えるときには、神の元に帰ろうとしないからですね。しかし、そんな喜びは永遠には続かないものだと思います。
人は老い、病み、いつか死にます。しかし、何があっても変わらないキリストは状況に左右されない救いをあなたのために用意しておられるのです。キリストの中には罪の赦しがあります。永遠のいのちがあります。天国の国籍があります。人生の目的があります。神の家族の特権があるんです。どうぞあなたもキリストにある幸い、素晴らしい特権を受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。
その人たちは慰められるからです。
(マタイ5:4)