ごきげんいかがですか。尼川匡志です。
さて、この番組のタイトルは「聖書と福音」です。良いタイトルだなあと思います。聖書の中心テーマはキリストです。福音の中心テーマもキリスト。つまり、この番組は皆さんにキリストを知っていただくために作られていると言えるんですね。今日はこのキリストの生き方を考えてみたいんです。聖書を一箇所お読みします。
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
この箇所から三つのことを考えたいんです。一つ目「神のあり方を捨てて降りて来られた」ということ。二つ目「しもべになるために来られた」こと。三つ目「十字架につく選択をされた」こと。
神のあり方を捨てられた
それでは一つ目。神のあり方を捨てて降りて来られたということ。なぜキリストは神のあり方を捨て、罪にあふれているこの世界に降りて来られたのでしょうか。それは、私たちにどうしても伝えたいメッセージがあったからなんです。この世界は強い者が上に立ち、弱い者は虐げられます。誰も弱い立場になりたい者はいません。しかし病気や、貧困や、境遇や、家庭環境などがその人たちを弱い立場に追い込むんです。その人に責任があるわけではありません。社会の仕組みがそうなっているんですね。神は、人が苦しみ嘆く人生を歩いて欲しいとは願っていません。一人一人が与えられた命を喜び、祝福された人生を生きて欲しいと願われているんですね。福音書でキリストが訪ねられた人たちは、全員苦しみ嘆く人たちでした。生まれつき目が見えず物乞いしかできなかった人。夫に先立たれ、大切な息子まで亡くし、絶望していた女性。長く病に臥せっていて、誰も私のことなんか助けてくれないと恨んでいた病人。悪霊につかれ、自分で自分を傷つけ、苦しみ叫んでいた男。お金で苦労し、金さえあれば幸せになれるんだと考えていた取税人。結婚することで幸せを掴めると思い込んで、失敗を繰り返したサマリヤの女。彼らは全員心が傷つき血を流していました。この世界はそんな彼らの心の叫びに無関心だったんです。しかし、キリストはそうではありません。彼らの心の叫びを聞き、訪ねられたんですね。あなたの心は叫んでいませんか。この世界は世知辛いと諦めていないでしょうか。自分の心をごまかしていないですか。悲しいならキリストにその悲しみを伝えてみてください。そのためにキリストは降りて来てくださったんです。あなたの声に耳を傾け、大切なメッセージを届けてくださるはずです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」「わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」キリストはあなたのすぐそばに立っています。心を開きさえすればキリストのメッセージがあなたに届くはずです。
しもべになられた
二つ目です。しもべになるために来られたということ。しもべとは、仕える者のことです。キリストは仕えるためにこの世界に来られました。それは、あなたが神を信じることができるように仕えるということなんです。サマリヤという所に一人の女性がいました。彼女は結婚することで幸せになれると考えていたんです。しかし思い通りにはなりませんでした。五回結婚し、別れ、今は同棲中。愚かに見えるかもしれませんが、彼女の心の叫びを聞こうとした人は一人もいませんでした。ある時、キリストが井戸の傍らで彼女を待っていたんです。「私に水をください」と声をかけ、会話の中で彼女が分かるようにご自分がキリストであることを示し、信仰に導かれました。彼女は結婚を繰り返しても満たされなかったんです。本当に求めていたのは心の空洞を埋めることだったからです。同じことを私たちもやっています。お金があれば満たされる。健康があれば、能力があれば、地位や権力を持てば、もしもこうなればと求めては失敗をするんです。それは間違ってるんですね。私たちは今のままでも心が満たされ、幸せになれるんです。ただそのためには、あなたを創造した神に出会う必要があります。私たちは自力で神に出会えないんです。だからキリストがあなたに仕え、神に出会うためのきっかけを作り、導き、支えてくださるんですね。サマリヤの女は神に出会いました。同じようにあなたが神に出会えるように、仕えるために降りて来てくださったのがキリストなんです。
十字架につく
三つ目です。十字架につくという選択です。キリストは苦しむ人を訪ね、愛で満たされた方です。その方がどうして犯罪人がかけられる十字架につけられたのでしょうか。不思議です。キリストは盲人の目を開け、寝たきりの人を立たせ、ツァラアトを癒やし、死人を生き返らせました。つまり十字架にかけようとする人間たちを、失明させ、病に臥させ、ツァラアトを発症させ、命を取ることだってできたはずです。なぜそうせずに十字架につかれたのでしょうか。考えられることはただ一つです。自らの意志で十字架につかれたということです。キリストは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言われました。つまりキリストをさばいたのは、ローマ法王でもユダヤの律法でもありません。父なる神なんです。なぜ神はキリストをさばく必要があったんでしょうか。人間は神に罪を犯し、それによって神との間に隔ての幕をつくってしまいました。キリストは降りて来て、神のメッセージを伝え、神に出会えるように仕えてくださいます。しかし隔ての幕はそのままだったんです。聖書にこうあります。「イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」神と人間とを隔てていた罪の幕が引き裂かれたんです。十字架が完成しました。キリストが降りて来られた最大の理由は、私たちの罪を処分し、キリストを信じる者は誰もが罪赦され、神を信じる道をつくることだったんです。キリストはあなたのために神のあり方を捨て、降りて来てくださった。このキリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。
(ピリピ2:6-8)