ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
『世界がもし100人の村だったら』という絵本があります。世界70億人を100人に換算して考えようという本です。それによると村に住む人々100人のうち20人は栄養が十分ではなく、1人は死にそうなほどです。でも15人は太りすぎです。75人は食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐ場所があります。でも、あとの25人はそうではありません。17人はきれいで安全な水を飲めません。銀行に預金があり、財布にお金があり、家のどこかに小銭が転がっている人は一番豊かな8人のうちの1人です。村人のうち1人が大学の教育を受け、2人がコンピューターを持っています。けれど14人は文字が読めません。
おそらく、このラジオを聞いてくださっているあなたには銀行に口座があり、財布にはお金があり、机の引き出しのどこかに小銭が転がってるんじゃないでしょうか。そして、ほとんどの人がパソコンかスマートフォンをお持ちではありませんか。そして、多くの人々が夜露をしのげる家の中でこの放送を聞いてくださっているのではないでしょうか。日本は世界で5本の指に入るほどの裕福な国なんです。しかし、裕福な国の中に生きてる割りには、幸せそうな顔をしてる人より疲れた顔をしてる人の方が多いような気がするんです。
人間は、物や財産だけでは決して心満たされることがないんですね。人の心は物だけではなく、物以上の何かがないと躍動しません。物以上の何かとは一体何でしょう。円満な人格との交わりではないかと私は思うのです。
ワニと人間の友情物語
先日、ある本にこんな記事が紹介されていました。中米のコスタリカという国の話です。そこにジルベルト・シーダンという漁師がいました。彼はいつものようにパリスミナ川というカリブ海に流れ込む川に漁に行くと、一匹のワニが横たわっているのを発見するんです。そのワニは左目を銃で撃たれ瀕死の状態でした。もう何日も食べてないのでガリガリに痩せてます。3メートル近いのに体重が68キロしかなかったそうです。
シーダンさんは何を思ったか、かわいそうに思って、なんとこのワニを自宅に連れ帰り看病を始めるんですね。しかもワニの隣で添い寝しながらの看病です。このワニを「ポチョ」と名付けると、ニワトリなど餌にして食べさせてやり、体力を回復させ、傷口に薬を塗り、つきっきりでケアをしたのです。驚異的な生命力でポチョは元気になったので、彼は元いた川にこのワニを逃がしてやったのです。
それからしばらくたって、またパリスミナ川に漁に出ました。すると一匹の大きなワニがじーっとシーダンさんを見つめてるではありませんか。やがてこのワニは、のそのそとシーダンさんの所にやって来ると、じっと目を閉じて寄り添うようにし、親愛の情を示したのです。それは5メートルに成長したポチョでした。シーダンさんが帰ろうとするとポチョはついて来るんです。追い返しても追い返してもついて来るんですね。
それでとうとうシーダンさんは、このワニを自宅近くの池で飼うことにしたんです。ワニのポチョは全面的にシーダンさんを信頼し、不審な者が近づくと彼の家を守る番ワニになったのです。やがて、シーダンとポチョはワニと人間のショーを見せるようになり、海外からも観光客が殺到するようになったんです。先日このワニが老衰で死んだとき、悲嘆にくれるシーダンさんを慰めるため、地元の教会でワニのお葬式を挙げたんだそうです。
心の交流が必要
ところで、このワニと人間の友情物語は、動物学者や脳科学者たちにとって大変興味深いものとなったのです。と言うのは、ワニに代表される爬虫類の脳には情操を司る部分がほとんどないと言われているんです。本能だけで生きている生き物だと考えられているんです。脳の構造上、感情や愛情を認知する部分が小さくって、ほとんどが大脳被殻部という、快と不快以外は感知しない生き物だと思われていたんです。ところがこのワニがですよ、このワニでさえも情愛豊かな人格から看病され九死に一生を得た時、恩に報いるという行動に出たと言うのです。野生のワニですら愛による心の交流を知ってしまうと、それに最大の快を感じて友情を尽くすように変わったと言うのです。
それなのに、人間は自分に良くしてくださる神を無視して生きてるというのは、なんだかワニ以下の生き方のようにも思うのです。人間がどんなに物質的に豊かになっても心がすさんだままになってるのは、人間を造り、人間を生かし、日々良くしてくださっている神を見失って、この神という完全に円満な人格者との交わりが、途絶えてしまってるからではないでしょうか。
聖書の中にこう書いてあります。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
人が望むもの:変わらない愛
人間の心が望んでやまないもの、それは第一に、変わらない愛です。
変わってしまう愛は人の心を満たすことできません。アダルトチルドレンという言葉があります。これは子どもじみた大人という意味ではありません。幼少期に、ちょっとしたことで怒りが爆発しやすい、そんな親に育てられた子どもたちは、親から捨てられないようにするために無理して大人のように振る舞うのですが、それは健全な成長によるものではなく恐れによる振る舞いなのです。
クリントン元大統領は、自伝の中で自分がアダルトチルドレンだったということを告白しています。彼はいつも相手に必要とされたいという思いだけが募り、自分を必要としてくれる相手をどうしても失いたくないために、相手に執着しては失敗するということを繰り返してきたって言うんです。どうしてそんなことになったんでしょう。ころころ変わる愛しか経験してこなかったからです。変わる愛は、むしろ人を傷つける愛です。そして、変わってしまう理由は、その愛が相手のために相手を愛する愛なのではなく、自分のために相手を愛する愛だからです。そして、完全に変わらない愛を持っている人は実はこの世の中にはいないんです。そんな愛は神しか持っていないんですね。
人が望むもの:人の愛
第二に、人が望むものは人の愛だということです。人の形によって、また人の行動によって現された愛と言っても良いでしょう。しかし、現実には人にはそんな愛はないのです。そこで神は完全なる愛を人となって現してくださいました。この人となられた神こそはイエス・キリストです。キリストはあなたを愛するあまり、あの十字架にかかっていのちを投げ出し、あなたの身代わりに罪の刑罰を受けてくださった方です。そして墓に葬られて後、三日目に死を打ち破って復活された方なんです。すなわち、今も生きている方なのです。今生きてこのメッセージによってあなたの心に触れている神、それがイエス・キリストです。
どうぞあなたもご自分の救い主としてイエス・キリストを心に迎え入れ、神とともに歩む人生の中に入ってください。心からお勧めしたいと思います。
松本優香:君は愛されるため生まれた
(1ヨハネ4:9)