ごきげんいかがですか。髙原剛一郎です。
さて、アップルを創業したスティーブ・ジョブズという人は人にビジョンを伝えるのが大変上手な人でした。ある時開発中のパソコンの起動時間を短くするように、エンジニアたちに命じるのですが、彼らはのってきません。それほど重要なことだと思わなかったからです。
そこでスティーブ・ジョブズはこう言ったそうです。「仮に起動時間を10秒短くするだけで、人の命が救えるんだったら、それをしますか。」続けて「世界中でMacを使う人が五百万人いた場合、一日10秒余計な時間がかかると、年間三億時間の違いになる。言い換えれば、一年間で百人分以上の人生に相当する時間を節約できるんだ。」この言葉に刺激を受けたエンジニアたちはその後の数週間で起動時間を28秒も短縮したといいます。やる気のなかったエンジニアの心に火を点けたのが、この仕事には意味があり、価値があるということを確信させることができたからです。
人間は無意味なことに人生を使いたいとは思いませんね。意味もあり、価値もある人生を生きたいというのは、誰もが願っていることだと思います。では、私が今生きてる人生の結末は意味があるのでしょうか。価値があるのでしょうか。すばらしいものに向かって、近づいているのでしょうか。
聖書の中に次のように書いてあります。
ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は、闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのときに、神からそれぞれの人に賞賛が与えられるのです。
ここから三つのポイントでお話いたしましょう。
汚名を着せられた人
第一に、人の本当の姿は神の前に出るときまで、わからないということです。
私の蔵書の中に「汚名」というタイトルの本があります。これはアルジャー・ヒスというアメリカ人の自伝なんですね。彼はルーズベルト大統領の片腕として、外交の檜舞台で活躍し世界的に脚光を浴びた人なんです。
国務省の高官としてヤルタ会談に参加し、日本が独立したあのサンフランシスコ会議の事務総長を務め、そして第一回目の国連総会でアメリカ首席顧問を務めたエリート中のエリート外交官なんです。
ところが1948年、彼のことをソ連のスパイだと告発する人物によって、一挙に奈落の底に突き落とされてしまうんです。結局スパイ罪では処罰されませんでしたが、偽証罪で44ヶ月間刑務所に入ります。その間の葛藤や苦しみ、無実の人間が汚名を着せられたということの悔しさ、そういったのもがびっしり書かれている自伝なんですね。
そして一度スパイの容疑のかかった人間に対しては、服役を終えた後も世間の目は、たいてい厳しいもんなんです。それで彼は、40年にわたって、潔白を訴え続けるんですね。とうとうソ連崩壊の翌年の1992年、ロシア側の調査で彼のスパイ活動は否定され、潔白が証明されたのです。
彼はこの次の年に亡くなったんです。無実の人がレッテルを貼られて、本来ならば大活躍できたはずの人生を棒に振ったということは、たいへん気の毒なことで、私もこの本を読んで、同情禁じえなかったんですね。
すべては明らかにされる
ところが、95年になって、ベルナ文書というものがアメリカで公開され始めたのです。アメリカっていう国は民主主義国家ですので、一定の期間になれば、たとい機密情報でも公開されるんですね。で、この文書は戦前のソ連のスパイが交わした暗号文書で、そこを見ますと、なんとルーズベルト政権の中に、二千人ものソ連のスパイが入り込んでいたということが暴かれているという文書だったのです。そしてその二千人のうちの一人がアルジャー・ヒスだったのです。日本の北方領土がソ連のものになるように枠組みを作ったのも、何を隠そうアルジャー・ヒスです。
私は「汚名」という本を読んでいるときには、すっかり彼の言うことを真に受けていました。だから、同情していたんです。ところが彼の正体は、紛れもなくソ連のスパイだったっていうんですね。真実が明らかにされると、それまで善人と思われていた人が実は裏切者であった、とか、今まで悪人扱い受けてきた人が、実は誠意ある人物として評価すべきであるとか、そういうふうに評価が変わるんですね。
一般庶民は公文書に登場することはないでしょう。しかし、私たち一人ひとりが闇の中で行ったこと、心の中のはかりごとのすべて、人には知られないままでいるその一切合切は、全部明らかになるときがやってくるんだと、聖書は語ってるのです。
死後の裁き
第二に、そのときはいつなんでしょう。それは私たちが生きている間ではありません。死後、一人ひとりが神の前に立つ時に、そのときが来るのです。
そしてそのとき、人は心の中の計画や、闇の中でしたすべてが光の下にさらけ出されます。そしてそのとき、弁解できる人は誰もいないんです。人は自分の行ったことに応じて、さばきを受けると聖書は語っています。
そしてそれを前もって語ってるのは、今ならその審判で無罪を得る方法がある、と聖書は語るんです。死んでしまった後ではどうしようもありません。しかし、今チャンスがあるんです。
信じれば救われる
第三に、今日の聖書の箇所は、実は警告のメッセージではなく、喜びのメッセージとして語られているということです。というのは、主は闇に隠れていたことを明るみに出して、神からそれぞれの人に賞賛が与えられる、とあるからです。
私たちはふつう、闇の中を明るみに出されたら、その次に来るのは処罰に違いないと覚悟するのではないでしょうか。罪には処罰が当然であるからです。しかし、ここでは処罰ではなく、賞賛であり報いであり、慰めが語られているんです。どうして神はそのように罰を語らないのでしょう。罰はすべてイエス・キリストが十字架の上で背負ってくださったからです。
そしてこのイエス・キリストの身代わりの故に、イエスを救い主として受け入れているすべての人には、罰ではなく、労い、賞賛、報いを与えてくださると約束しているのです。つまり、今日読んだ聖書のことばは、すでにイエス・キリストを救い主として信じ受け入れている人々へのことばなのです。それは難しい話ではありません。今このイエス・キリストを受け入れるために、どのようにすればよいのか、三つのことを信じているならばその人は救われているというのです。
第一に、キリストは私の罪に死なれたこと
第二に、墓に葬られてこと
第三に、三日目によみがえられた救い主であられること
を信じるならば、あなたは救われます。
あなたはこの三つの原則を今、信じておられますか。信じてください。救われます。そしてキリストをこのように受け入れているすべてクリスチャンを迎えるために、キリストは再び来られる方なのだとここで約束しているのです。それはさばきのために来る到来ではありません。花婿が花嫁を迎えるためにやってくる、喜びの到来なのです。
いかがでしょう。2021年、この新しい年、ぜひあなたもこのイエス・キリストを救い主として信じてください。心からお勧めいたします。
(Ⅰコリント4:5)