ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日私は、とても短い童話を読みました。
「甘えん坊の子猫が、柱に爪をたてたのです。もう少し上の方に昔お母さんがつけた爪痕がありました。さらにもう少し上にもう一つ爪痕がありました。子猫は初めてお父さんと会えたような気がしました。」という話です。
この子猫はお父さん猫の姿を見たことがありません。気がついた時にはもういなかったんです。しかし、飼われている家の柱の爪痕を見て、確かにお父さんがいたんだなあ、懐かしい思いでいっぱいになっているという、そういう話です。
この童話を書いた作者は幼い時に父親を亡くした方だったので、私もじーんときました。
ところで私たちの造り主である神も、私たちの目には見えない方です。しかし、見えないからといって存在していないのではありません。確かに神はおられるということを示す爪痕が、この世界のあちこちに残されているのです。その一つは自然界という神の作品です。
反射を防止するフィルム
ここ数年、全国の水族館で夜間営業をするところが増えているそうです。子どもだけでなく、仕事帰りの大人が深夜に、クラゲやウミウシをぼーっと眺めることでストレス解消できるからです。
ところで深夜の水族館の館内は当然、明かりが灯されます。ところが、ここに問題が一つ出るのです。水槽のガラスに照明器具の光が反射してしまうんですね。ガラスと空気の境界面では、光の屈折率が違いますので、水槽の表面が鏡のように反射してしまうのです。
一体どうすればこの問題を解決できるでしょう。なんと、昆虫の蛾の目が、答えになってくれたというのです。実は蛾という虫は夜中に行動するので、ごくわずかな光もすべて瞳の中に取り込む必要があるのです。つまり目のレンズがほとんど光を反射しない構造になっているのです。
具体的には目の表面が、ナノサイズの凹凸形状になっているので、外部の光は反射せずにそのままほとんど眼球の中に取り込まれていくのです。この蛾の眼球表面の凸凹を、そのまま再現したフィルムをガラス面に貼ると、みごとに光の反射が消滅しました。どの角度からも、中がよく見えるようになったんです。
自然界のデザイナーが必ずいる
ナノサイズの凹凸があるフィルムは、科学メーカーの知恵と技術で作り出されたものです。しかし、そもそもそのデザインは蛾の形状、蛾の目の形状そっくりそのまま物真似たのです。人間が長い間思いつけなかった反射防止デザインを、蛾はどのようにして身につけたのでしょう。蛾のような小さな頭脳で考え出せるはずがありません。蛾の目の構造をこのように設計した方がおられるのです。
私たちはしゃれたデザインを見ると、冴えたデザイナーがいるな、とわかります。だとすると、究極の合理性を持った蛾のデザインはそれを造ったデザイナーの存在を証していることになるのではありませんか。この自然界のデザイナーこそは、創造主なる神です。そして昆虫にここまですごいデザインを惜しみなく施す方が、虫よりも優れているあなたのことをお忘れになるはずがありません。神は自然界を通してご自分が確かに存在しておられるということを証しておられるのです。
傷によって癒される
そして今日はもう一つ、神の愛を証しする爪痕、傷あとをご紹介したいのです。それはイエス・キリストのからだについた十字架の傷あとです。
聖書はこう言っています。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された。
このことばは不思議です。ふつう、傷を負った人は包帯や薬で癒されます。そして治療や看護をしてくれる人は、けが人ではなく、健康体の人です。
ところが聖書は、キリストが十字架にかかることで、全身傷だらけになり、悶え苦しんで死んでくださった。この私たちのために死んだ方、死んだだけでなく、よみがえったキリストの傷が、私たちを癒したというのです。どうしてキリストの受けた傷が、私たち罪人の傷を癒すのでしょう。
痛みを理解してもらえるということ
潰瘍性大腸炎という難病で、学生時代から何年間も入退院を繰り返す経験を持った、頭木弘樹さんという方がご自分の経験を語っておられます。
ある時彼は手術で麻酔のミスがあったのです。それで術後、たいへんな痛みに苦しむのです。しかも、看護師さんが「痛いはずはない。夜中にドクターを呼ぶと私が怒られる。」と言ってなかなかドクターを呼んでくれなかったので、一晩中痛い思いをしたのです。集中治療室のベッドの上で、えびぞりになっていたほどです。その時あまりの痛さで、目が見えなくなるという経験をしたほどです。しかし、自分以外に手術でそういう目に遭った人は、彼の周囲に誰もいませんでした。だからこれは、誰にも共感してもらえない彼だけの経験だったのです。
ところがある日のこと、以前に入院して手術を受けた中年男性がお見舞いにやってきたのです。頭木さんのお見舞いに来たというわけではなく、通院のついでに自分がかつて入っていた六人部屋をのぞいてみたのです。そうしましたら、まだ入院していたのは、頭木さんだけだったんです。彼は世間話として軽く、手術の後痛くて、という話をしたんですね。
するとなんとそのおじさんが、急にぽろぽろと涙をこぼし始めたのです。実はそのおじさんはアルコール依存症で、そのせいで麻酔がうまく効かず、やはりかなり痛かったらしいのです。その瞬間、頭木さんは直感しました。この人は本当にあの痛みをわかってる。頭木さんの目からも急に涙がぽろぽろとこぼれました。自分でも驚きです。それまでは、泣くことができなかったのです。しかし、この時初めて泣きました。そして、二人でおいおいと泣いたと言います。泣くだけ泣くと、頭木さんの気持ちがなんとも言えない晴れ晴れとしたものに変わっていたというのです。
そのおじさんが痛みを理解してくれたからといって、何がどうというわけではありません。でも何か自分にのしかかっていたものが、同じ経験をした人のところに移り住んでいったような気がしたというのです。
キリストの傷は神の愛の証拠
私はこの話を読んだ時、すぐにキリストの傷のことを思いました。キリストの打ち傷を思うと、私の上にへばりついていた罪や苦しみや、やりきれなさが消えていくのです。
それはキリストが十字架の上で私のすべての罪も過去も苦しみも、ご自分の上に乗り移らせて永久に処分してくださったということが、イメージとして理解できるようになるからです。
キリストの打ち傷こそは、神があなたを愛しておられるという証です。そしてあなたの罪の始末が終わったことを示す証拠でもあるのです。
いかがでしょう。どうぞあなたも、あなたのために死んでよみがえったイエス・キリストを救い主として信じてください。心からお勧めします。
(1ペテロ2:24)