新約聖書
『 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 』
(1ペテロ1:3)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.915 2017年10月8日

「復活を信じた3つの理由」

おはようございます、那須清志です!

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 今回のテーマは「死者の復活」についてです。イエス・キリストが今から二千年前、十字架で処刑されたことについてはよくご存知でしょう。
ところが聖書はイエスが死後三日目に死から復活したと記録しているのです。
これは死んだと思われた人が息を吹き返す「蘇生」とは違います。肉体は死んだが、地上の体と違う新しい体が与えられたと聖書は記しています。
私もこれを最初聞いたとき、「これはあり得ない」と思ったものです。しかし、聖書は確かに起こった事実として記しています。イエスの復活は後から付け加えたエピソードではなく、最初からクリスチャンが主張していた証言の重要な部分でした。
言い換えれば、この復活が嘘であることを立証できれば、彼らの信仰は葬り去られていたのです。しかし、今なお「イエスの復活」を多くの人々が信じ、受け入れています。私も信じています。目の前に現れたイエスを見たことはありません。
しかし、イエスが復活して今も生きておられるということを信じることができました。その理由を三つ考えていきましょう。

無から有をつくる創造者

 第一に、「創造主がいるならば死んだものを復活させることもできる。」と思ったのです。
私は、昔から目には見えないけれど、人間をはるかに超えた神のような方がいるのではないか、と漠然と思っていました。
しかし、聖書が語る創造主のことを聞き、神が造られたと言われる天地万物の偉大さ、そこに満ちた知恵や秩序を見るとき、「確かに万物の創造主はいる」と思いました。
この神は無から有を産み出すことのできる方です。一人の人を産み出すプログラムを作ることができる方であり、その材料もすべて備えることができるのです。
その方の手にかかれば、たとえ肉体が壊されても、なお存在している霊と魂を生かし、新しい体を与えるということは、いともたやすいことではないでしょうか?
どんなに複雑な機械でも、それを作ったメーカーが存在するのであれば、修理したり、作り直すことができて当然なのです。ということは、復活を信じることができるかどうかは、創造主の存在を信じることができるかに直結しているのです。
イエスの復活についてだけ考えるより、まず創造主について考えた方が近道になるかもしれません。無から有を造ることができる創造主の存在を信じる者にとっては「死者の復活」があるかどうかは大きな問題ではないのです。私も創造主を明確に信じたとき、「死者の復活」もあり得ると思いました。
問題は死者の復活があるかないかではなく、死者の復活が人類のうちたった一人、イエスの上に起こったか、ということになったのです。

イエスの生涯をじっくりと見る

 第二に、「イエス・キリストを深く知ったとき、神はこの方なら復活させたかもしれない。」と思ったのです。
 死んだ者に復活の体を与えることより、広大無辺の宇宙を造る方がよほど難しいように思われます。
でも、宇宙は神が造ったと思っている人でも、それよりもはるかにスケールの小さいように見える死人の復活についてはすんなりと受け入れられないのです。それはたぶん、人間って死ぬものだ、死んだら終わり、と実感するほうがはるかに多いからでしょう。
宇宙に目を向けるとき、人間の小ささに驚かされます。でも天地の造り主がそのちっぽけな人間に心を留めておられるというのです。そして人間を罪から救うために、神が救い主イエスをこの地上に遣わされました。
神が送った救い主を他の人と見間違わないように、神は認証システムも定められました。救い主の生涯について300か所以上に亘る預言を予め旧約聖書に記し、その一つ一つを検証するとき、確かに「イエスは神が用意された救い主だ」とだれでも確認できるのです。
その預言の一つが「救い主は私たちの罪のために死なれるが、死んだ後に復活する」というものでした。聖書が認証する救い主は「イエス・キリスト」だけです。だからイエス・キリストしか死後、復活しなかったのです。全人類の中で、イエス・キリストだけに起こったことですが、これはイエス以外に救い主はない、という明確なしるしなのです。
 今年、将棋の世界に一般の人の目をくぎ付けにさせたのは、言わずと知れた藤井聡太さんです。
素人の私にとっては彗星のように現れた感じですが、将棋界では以前から注目されていました。
5歳で将棋を始めた彼は、6,7歳の頃にはすでに詰将棋の実力がプロ以上になっていたそうです。今回のプロ初対局初勝利から無敗で29連勝という途方もない記録も、これまでの歩みから見ると、実力の一つの表れと言えるでしょう。
イエスが死から復活したということも、そのときだけ突然降って沸いた事件ではないのです。イエスの権威を高めるために弟子たちが考えたエピソードでもありません。
私はイエスの生涯をじっくり見ていくなかで、「神がこのイエスなら死から解き放ち、特別な栄誉を与え、預言どおりに新しいいのちを与えた、ということもあり得る。」と思うようになりました。

命がけで弟子が証言した復活

 第三に「イエスの復活を証言した人たちの生き様を見て、その証言は真実だ。」と思ったのです。
 これまで起こった事柄を記しているのが社会の教科書です。その教科書も時代が進み、研究が進むことによって書き換えられることもしばしばだそうです。
みなさんは聖徳太子と言われてその顔が思い浮かびますか?
昔の1万円札は聖徳太子の肖像画が印刷されていました。あの姿を思い起こす人も多いと思いますが、実はあの絵、聖徳太子の絵かどうか疑わしいというのです。
絵の中で手にしている杓は、奈良時代に中国から伝わってきたもので、聖徳太子が生きていた時代に日本にはなかったというのです。ということで今の教科書には「聖徳太子と考えられる絵」と説明されているそうです。
法隆寺で見つかった絵だったということもあって、関係がある可能性は高いとのことですが、当時の専門家がお墨付きを与えたのでみなそう思ってしまいました。
 一方、聖徳太子の時代からさらに600年ほど遡った中東イスラエルで起こったイエスの復活。
復活を信じるか信じないかは別にしても、「弟子たちが証人となって復活を宣べ伝えている」という事実は未だ誰も否定できません。復活がメッセージの中心だったのです。
聖徳太子の絵が本物かどうかは、私の人生に大した影響はありません。たとえその事実が判明しても、それを命がけで世界中に伝えようとは誰も思わないでしょう。
しかし、イエスの復活の事実は全世界に伝えられました。死からの復活があるかどうかは、私だけなくあなたの永遠に大きく関わる問題だからです。

復活したイエスさまを味わう

 人間の肉体は朽ちても、魂は存在し続けると聖書は言います。人間は死後、神の前に出て裁きを受け、神の前に罪なしと認められたものは、イエスと同じような新しい体を与えられて神の国に導かれます。
一方、自分の罪の中で永遠の滅びを刈り取るものも数知れないと厳粛に警告しているのです。
 今の私たちが死者の復活をなかなか信じれないように、イエスから直々に教えられていた弟子たちも最初信じることができませんでした。思いがけず、急転直下で裁判となり、十字架刑に処せられたイエスを前に、弟子たちの大部分は、自分の命欲しさに逃げ去ったです。
しかし、その後大転換が起こりました。復活したイエスに会い、もう一度「救い主の十字架の死と復活」の意味について学びました。そして、全世界にこの福音を大胆に語り伝えるようになったのです。
永遠のいのちの存在をイエスの復活を通して知った彼らは、まさに地上の命を賭けて語っていきました。そのほとんどが迫害され、殉教しました。私はその後の何千、何万というクリスチャンの生き様をみたとき、他の歴史の事件と同様に、イエスの復活があったのではないかと思うようになりました。
私たちの罪の身代わりに十字架で死なれ、死から復活したイエス・キリスト。この方を自分の救い主として信じ受け入れたとき、人は神からの救いを頂きます。
そして、目には見えませんが復活して今も生きておられるイエス・キリストの愛と恵みと力を味わうことができます。
是非、イエスを救い主として受け入れてください。こころからお勧めいたします。

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