新約聖書
『 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。 』
(ローマ1:20-21)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.914 2017年10月1日

「自然界に見る神存在の証し」

おはようございます、高原剛一郎です!

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先日、私は旅行先のビジネスホテルで一泊しましたが、その晩ほとんど眠れませんでした。
実は一匹の蚊が部屋に侵入していたからです。眠りに落ちようとすると耳元であのなんとも言えない不愉快な羽音がするのです。
あのブーンという高音を聞くと、微睡みが吹き飛んでしまいます。ちなみに、蚊という漢字は、虫へんに文と書きますが、それは蚊の羽音がブンと聞こえることによるそうです。
ところで、蚊のことを英語で「モスキート」と言います。この「モスキート」という名の装置が今、全世界で十万台以上売れているというのです。一体、どんな装置なのでしょう。
17000ヘルツの高い高周波の音を出す装置なのです。この音は人間を非常に不愉快にさせるのです。それが聴こえるところから、一刻も速く逃げ出したくなる音なんです。
この装置は、夜中に大騒ぎする若者たちを退散させるために利用されてるんですね。日本でも少なからぬコンビニの駐車場に設置されてると言われています。夜間、店の前でたむろする若者を追い払うためなのです。
しかし、そんな不快な音響装置は、一般の大人にとっても不快なのではないでしょうか。実は17000ヘルツ以上の高周波音が聴こえてくるのは、二十代半ばまでなんです。
三十代になると、まず鳴っていても気がつかないというのです。それは聴力が老化したからなのです。つまりこう言えるんですね。聴こえないから鳴っていないとは言えない。実は聴く能力がないので聴こえていないのかもしれないのです。見えないから存在していない、とは言えない。実は見る能力がないので気がつかないだけなのかもしれないのです。
聖書の語る創造主は、目で見えず、耳で聴こえず、手で触ることはできません。だからといって神なんか存在しないとは言えないのです。神を知る能力を失っているので、神に気づかないのかもしれないのです。
聖書の中にこのように書いてあります。

神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。

今日もここから、三つのポイントでお話いたしましょう。

最新型戦闘機のモデルになるツバメ

第一に、この世界の造り主は目には見えなくても、神の作品である自然界を通して知ることができるということです。
あなたはツバメという渡り鳥をご存じだと思います。高速で飛ぶので、特急電車の名称に採用されたりします。
しかし、ツバメが優れているのは飛ぶ速度ではなく、急旋回できる能力なのです。速さだけなら、ツバメを上回る鳥が他にもいるんですが、方向転換能力はとにかく、ずば抜けているのです。
餌になる虫とすれ違っても、急旋回でUターンして捕えることができるのです。これを、ツバメ返しというんです。佐々木小次郎の必殺技にもこの名称がついていましたね。
高速のまま、変幻自在に向きを変える能力がこの鳥には備わっているのです。そしてその秘密は、ツバメの尾っぽの形にあるということがわかっているのです。
他の鳥と違って、ツバメの尾羽は二股に分かれているのです。裾が二つに分かれている礼服のことを、燕尾服と言いますが、燕尾とは、ツバメの尾と書くんですね。この尾羽が二つに分かれていることで、方向を自由に変えることができるのです。
このツバメの旋回能力を徹底的に分析したのが、世界のジェット戦闘機のメーカーだったのです。かつて第三世代の戦闘機は、私たちがいつも乗る旅客機のように、尾翼が一枚だけでした。
しかし、より高度のスピードと旋回能力とステルス性を必要とする現在の第五世代の戦闘機は、二枚の尾翼を持つようになっています。人間の知恵を振り絞って設計された最先端の戦闘機デザインは、実にツバメのものまねが発展したものなのです。
最新の戦闘機が人間の知恵の結晶であるなら、そのモデルとなったツバメは、それ以上の知恵者による作品だとわかるのではありませんか。自然界を見れば、神の目に見えない本性は、はっきりと認められるのです。

神はいないという間違った人生観

第二に、人を含めたすべてのものの作者を作者として認めないということは、作者への罪であるということです。
以前、東北大学の学長に、西澤純一という天才学者がいました。
彼は昭和三十年代に、光ファイバーの原理を発見し、それを特許庁に申請したのです。光ファイバーはガラスの管に光が走って情報伝達する技術で、IT技術を支えているものです。
しかし日本の特許庁はこの申請を却下しました。申請内容を担当官が理解できなかったのです。その内容があまりにも夢物語に思えて、その価値や意味がわからなかったのです。
それで西澤博士は、書式や表現を変えて二十回近く申請を繰り返しましたが、全部却下されたのです。
そのうちにアメリカの企業が、彼の論文をもとにして、原理を理解し、そして特許を取ってしまうのです。さらに西澤博士のアイデアをもとに、光ファイバーの量産化に成功した中国人の学者は、これでノーベル賞を取るのです。
本当の功労者は第一発見者、第一発明者で、その人こそが栄誉と評価を得るべきですのに、その人から教わった人が名誉も富もすべて持って行ってしまったのです。
私はこの話を知った時、、日本人としてたいへん悔しい気持ちになりました。認められるべき人が無視され、その恩恵を受けていた人々が栄誉を独占しているということに理不尽さを感じたのです。
しかし、これが理不尽というなら、最も理不尽な扱いを受けているのは、創造主なる神だと思うのです。
というのは、誰よりも多くのものを無から造りだし、偉大な知恵による作品でこの世界を満たし、その恩恵を無償で人類に提供しておられるにも関わらず、人はこの神を神としてあがめず、感謝もせず、無視して生きているからです。
自分の作者から離れ、自分のルーツを忘れ、神などいないという人生観で生きることは、間違いです。したがってこの間違った生き方のことを、聖書は罪と語っているのです。

キリストが生ける道を示される

第三に、神を打ち消した人生を生きる結果、人の心はむなしく、暗くなった、その刈り取りは人がしているのだ、というのです。
あなたがオフィスの自分の机を見ると、バラの花束が置いてあったとします。その花は偶然誰かがそこに置き忘れたものだと考えて、見ると、机のスペースを侵害する邪魔なもので迷惑にしか感じないことでしょう。
しかし、よくよく見ると、バラの花束にカードがついていて、それがあなた宛てのものであったらいかがでしょう。「ああ、そういえば今日は私の誕生日だった。」と思い出し、自分の存在を喜んでくれる人がいることを幸せに感じるのではありませんか。
神はおられます。そしてこの神はあなたを愛して、造ってくださった方なのです。あなたに本物の幸福を計画している、あなたのたましいの親なのです。そしてあなたが神に戻れるように、イエス・キリストという生ける道を示してくださっている方なのです。
どうぞあなたもこのイエス・キリストを救い主として信じ、ご自分の作者のところにお戻りください。心からお勧めしたいと思います。

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