新約聖書
『 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 』
(ヘブル2:14-15)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.911 2017年9月10日

「一階から天国へ」

おはようございます、高原剛一郎です!

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私は先日、「ウイルスと地球生命」という本を読みました。
その中にミツバチ博士として有名な東大の久保健雄グループの研究レポートが書いてあったのです。
実はミツバチの巣に外敵が侵入してきたとき、女王蜂を守るために立ち向かっていく働きバチと、われ先に逃げ出す働きバチがいるって言うんです。かたや命知らずの勇敢な働きバチがいると思うと、臆病な蜂もまたいるんですね。
いったいこの差はどこから生まれるのでしょう。研究の結果わかったことは、あるウイルスに感染しているか否かだったのです。あるウイルスに感染している蜂は、死を覚悟して敵に突っ込んで行くんです。というより、ウイルスによって脳がこわれた蜂だけが、死を覚悟して敵に立ち向かっていくことができるんです。
つまりウイルスに感染していない健康な蜂は、死よりも命を選んで、すたこら逃げていくのです。ちなみにこのウイルスは、覚悟ウイルスと名付けられているそうです。
昆虫のような小さな生命体でも、死よりも生を望むんですね。いのちは行きたいと願うものなんです。
ましてや人間が死を恐れるのは、ある意味当然なことだと思うんです。それは、死というものが、いのちの破壊をイメージさせるものであるからです。
聖書はこう語っています

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

今日も3つのポイントでお話しいたしましょう。

死の恐怖につながれた奴隷

第一に、人間は一生涯、死の恐怖につながれた奴隷状態にある、という指摘です。
ブッツァーティという人の書いた「七階」という小説があります。コルテという弁護士が、七階建ての病院に入院するところから始まる小説です。
実はこの病院は、下に行くほど重病人が入院しているのです。一階は瀕死の患者ばかりで、ブラインドが降りた部屋は亡くなった患者の部屋だというのです。
しかしコルテは七階なので、あまりそんなことは気にしません。ところがあるとき、七階の看護師長がやって来て「二、三日だけ部屋を変わってほしいんです、明日二人の子供を連れたお母さんが入院するんですが、広い部屋がないのでお願いできますか」。
彼が移ったのは六階でした。でも二、三日の間のことだけです。ところがその後、病院のシステムが変わり、各階の患者を軽度のグループと重度のグループの二つに分け、軽い方は上の階へ、重い方は下の階へ移ることになったのです。そこでコルテはなぜだか五階に下げられてしまうのです。
怒った彼が「こんな病院出て行ってやる」と啖呵を切るのですが、医者に止められるのです。「下の階に行けば行くほど、より高度な治療が受けられるのですよ」と。
さて五階にいると、湿疹が出て来たのです。その湿疹を治す装置は四階にしかないため、彼は不本意ながら四階に移されます。
四階にいると一番元気なのは自分なので、初めは優越感にひたっていることができたのですが、湿疹が治らないのです。そこでより強力な治療を受けるために、三階に移るのです。三階は重病人ばかりのフロアです。ところがドクターもナースも、なんとなく明るいのです。
聞くと15日間の休みを取るというのですね。「その間、三階の皆さんは二階に行きますが、15日経ったらまた三階に戻されるので、不安がらなくてもいいです」というふうに言われるのです。
二階に移ったコルテは、自分の頭上に七階までのフロアがあると思って「何と低いところにまで来たのか」と嘆くのです。ところが七日ほどたつと、看護師長が来て部屋を変わってほしいというのです。しかも一階へ移ることになっているというのです。コルテはフロア中に響き渡るような大声で叫びます「いやだ、なぜだ、どうなってるんだ。俺は本来七階にいるべき人間だったのに、なぜ俺を死の一階に突き落とそうとするのか」。
その叫びを聞きつけて病院の事務長がやってきます。「これは何かの手違いで起こったことですが、指示書に院長のサインがあるので勝手に撤回することはできません。そして院長は、たった今臨時の休養を取ったのです。三日後に戻ってくるまで、それまでの間だけ一階にいてください」と懇願されるのです。
コルテはもう言い返す元気もないままに、一階に移ると真昼間だというのになんだか暗い。よく見ると不思議な力で窓にブラインドが降りてきた・・。という小説です。
私が今まで読んだ小説の中で、五本の指に入る恐ろしい小説です。作者のブッツァーティは、これが人生なのだと言っているのです。
人生とは死に向かっていくしかないプロセスなのだと。決して下から上に行くことはないのだ。人はだれひとり死から逃れることはできず、あきらめるよりほかに仕方ないのだと言うのです。
聖書はこの状態にある人を「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっている」と語るんです。

死んでもたましいは生き続ける

しかし第二に、死とは一体何なのか、という指摘なのです。
ギリシア語で死のことをタナトスと言いますが、これは「分離」という意味です。肉体と魂が分離すること、これを死というのです。
肉体から、たましいが抜け出て行くことを死と言うんですね。体から離れたたましいは消滅せずに、永久に存在し続けます。
実は先日私は、大学を退官された栄養学の先生と語り合う機会があったのです。たいそう聡明な方で、ボランティアの活動で重い病の方々に寄り添って来られた本当に立派な方です。
それまでこの方の希望は、たとい人は死んでも、その人の生き方は残された人々の心の中に思い出として残る。他の人々の心の中に、その人の生きた足跡や生き方が残る。これが永遠のいのちということで、これが人を支える希望なのだ、と教え導いてこられたのです。しかしながら、いよいよご自身が重い病に伏されたとき、他人の思い出になることでは心が持たなくなったというのです。
人の心に記憶されようがされまいが、わたしという本人のたましいは、心は、いのちはどこに行ってしまったのか。そのことの答えになっていないからだ、おっしゃるのです。
人は死んでも消滅しません。たましいは不滅です。ただし、このたましいがどこで永遠を過ごすのかが問題なのです。行先は、二つのうちどちらかだけなのです。神のいない永遠の暗やみなのか、自分の魂の故郷である神の国か、のどちらかなのです。
私たちを造られた神の国のことを、聖書は天国と語っています。
そしてこの天国は、神の性質を反映した国なのです。罪や不正や悲しみが、一つもない世界なのです。

キリストが死に復活されという事実

第三番目のポイント、それは、キリストは私たちにこの天国に入る資格を与えるために、人となってこの世に来られ、私たちの罪の責任を一身に背負って死んで下さったということです。
そして死後三日目に復活し、死そのものを無力にしてくださったのです。
今日私がお話ししているこの福音メッセージは、キリストの弟子たちから代々に、新約聖書に書き残されて、伝えられてきたものなのです。キリストの弟子たちはキリストが死んだ後で、よみがえったキリストご自身を目撃し、復活の事実を経験と証拠で何度も確認し、確かな事実として世界中に宣べ伝えたのです。
そのため彼らは殉教することになりました。しかし彼らは死を恐れずに宣べ伝えたのです。それは復活の事実を見たからです。
どうぞあなたも、よみがえったキリストを信じ、ご自分の死の備えをなさってください。心からおすすめしたいと思います。

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