新約聖書
『 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 』
(ローマ5:7-8)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.912 2017年9月17日

「最強の二人 キリストと罪人」

おはようございます、高原剛一郎です!

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私は以前、一週間ほどウィーンにいたことがあります。お目当てのひとつは、国立音楽劇場で本場のオペラを観ることです。もちろん、演奏するのはウィーン・フィルです。
先日私は、この楽団に伝わる、数々のエピソードをまとめた本を読みました。
かつて、世界一うまく、世界一プライドが高くて、世界一気難しいオーケストラ、といわれたウィーン・フィルの逸話集です。その本を読むと、帝王といわれたカラヤンをはじめ、名だたる第一級の指揮者達がボロクソにけなされているのです。
ところが、たった二人だけ、ウィーン・フィルが敬愛する指揮者が登場するのです。それは、フルトヴェングラーと、クナッパーツブッシュです。
あるとき、クナッパーツブッシュが演奏中に指揮を間違えたために、オーケストラの一部が混乱したことがありました。聴衆は、演奏家がミスをしたのだと思います。ところがそのとき、彼は演奏中であるにもかかわらず、全員に聞こえるような大声で「間違ったのは俺だ!」と叫んだのです。
オーケストラ団員たちが彼に心酔する理由が、ここに見て取ることができます。団員達を飛びっきり大切にする指揮者だったのです。自分を大切にしてくれる人のことを大切に思うのは、当然のことですね。
ところが、聖書には、自分に対して徹底的に無礼な態度をとる人を、最高・最善の愛で愛したかたの事が書いてあるのです。 聖書はこう語っています。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

今日も、三つのポイントでここからメッセージをお届けしましょう。

神は愛という性質を持っておられる

第一に、神はご自身が愛であるがゆえに私たちを愛して下さった、という事実です。
旧約聖書のヨブ記の中に、神が造られた動物の性質を、一つひとつ説明しているところがあります。そのひとつに、ダチョウがあるんです。
ダチョウは苦労して産んだ卵を自分で踏んでも気にしない、生まれたヒナを踏み潰して死なせても平然としている、というようなことが書かれてあります。
実際、それは事実なんです。日本を代表するダチョウ学者、塚本康浩博士によりますと、ダチョウは、なんにも考えない鳥です。
餌を食べているときには、餌を食べているということ以外考えません。その最中にカラスに羽を抜かれ、肉をついばまれても気がつかず、腸が飛び出す頃になってようやく初めて怒り出す、というのです。
怒る、といっても走るだけです。というのは、ダチョウは声が出ないのです。
群れで行動しますが、行動原理がありません。強い弱いはあるのですが、AがBより強くて、BはCより強いのに、なぜか、CはAより強かったりするのです。ジャンケンみたいでよくわからない鳥なんですね。というより、基本的に目の前にあること以外に何にも考えていない生き物なんだそうです。
そういう動物に対して、人間が感情を移入して「どうして何も考えないんだ!」とクレームをつけても無駄なことです。そういう風に作られているんですね。
では、ダチョウより優れている人間は、どんな性質なんでしょう。立派な人には敬意を払うが、死んであげようとまでは思わないでしょう。
自分に愛情を注いでくれた人には、よくしたいという思いを持つことはあるでしょう。しかし、自分に損害をもたらす者には憎しみしか湧いてこないというのが人間です。
自己中心というのが、人の性質なのです。しかし、神は私たちが神に対して反抗心をむき出しにしているときでも私たちを愛して止まないかたなのだ、というのです。
私達が神を愛したら、それじゃ愛しましょうという愛ではありません。私達が罪や悪行を行っている最中ですら、私たちを愛して止まないかたなのです。
つまり、神はそのような御性質なかたなので、そのようにするのだ、というのです。
神様の愛は、あなたがどのような人であるか、に基づく愛ではありません。神がどのようなかたであるか、に基づく愛なのです。神は愛です。そして神様の本質は愛です。それゆえに、神は私たちを愛して下さるのです。

ありのままの姿でよい

第二に、私たちの罪をよく知った上で私たちを愛するかたなのです。
私は先日、『「空き巣」なう』という本を読みました。これは、50年以上にわたってまともな生業に就くことなく、空き巣だけで生きてきた人の体験記録です。
本人には、ひとつポリシーがあったっていうんですね。悪事はするが、家人を傷つけたりするような行為だけは絶対にしない、というのです。
彼は、空き巣の成功のために普段から肉体を鍛えています。毎日のジョギング、腕立て伏せ、スクワット、腹筋で、70歳に近づいても、空き巣を無事にやり遂げる準備を怠らない、というのです。
しかし、やましさがあるので、いつも誰かに見られている気がしてならないのです。そんな負担があるのになぜ、空き巣を続けてきたのでしょう。一言でいうと、陶酔感だっていうのです。
家の中に、発見されることなく侵入することができたときのエクスタシーは、麻薬を打ったときのような作用に近いそうです。脳にジンジン響く、胸の動悸とスリル感。全ては俺のものだ、という高揚感が、この悪を止められない最大の理由だというのです。
彼は何度も刑務所に入りますが、社会復帰すればたちまち元に戻って、悪に突っ走ってしまうのです。ゆがんだ達成快楽が脳内回路に焼きこまれてしまったがために、自分では止めよう、やめようと思うのですが、どうしてもやめることができない。自分にはこれしかないと思い込んで、警察のどんな更生プログラムを受けても止めることができなかったのです。
ところがある時、空き巣に入った時、その家の人が帰宅し、見つかってしまいます。しかし、その人は警察に突き出すのではなく、なじるのでもなく、じっと目を見て、あなたは必ず更生できる人だ、と信じきって助けてくれたというのです。
空き巣は、被害者の顔を見ません。いないときに入るんですから、当然です。しかし、自分のした悪の被害者の痛みや人柄、しかもあったかい応援の心に触れたとき、彼は、ふと我に返るのです。俺は今までいったい何をして生きてきたんだろうか、と。
彼は生まれて初めて、人から信じられる、期待される、赦されるということを経験するのです。これらのことを一言でいうと、「愛される」の一言になるでしょう。
以来、キッパリ足を洗い、今ではかつての経験を生かして、警備の仕事をしているというのです。
さて、神様は私たちの過去を全てご存知の上で、しかも私たちを愛し、赦し、期待し、信ずるかたなのです。ですから、このかたの前では下手な自己弁明は何ひとつ必要ありません。ありのままの姿で、神の前に出ればよいのです。

「最強のふたり」のさそい

第三に、神はイエス・キリストをあなたの罪の償いとして与えて下さいました。
神はあなたに、神の「最高」を与えたのです。なぜなら、愛とは、最上のものを惜しみなく与えさせるものであるからです。
キリストはあなたのために、十字架の上で身代わりの死を遂げ、墓に葬られ、三日目に復活されました。このキリストは、いま、生きて、あなたの人生にはたらく神です。
以前、私は『最強のふたり』というフランスの映画を観て、感動いたしました。脊椎損傷で首から下がまったく動かなくなった大富豪が、前科者でスラム街の不良を介護士として雇う話です。
実は、これは実話に基づく映画でした。介護をする青年は、言葉遣いも悪く、ふてぶてしいのですが、やがて、大富豪からのよい感化を受けて変えられていくのです。
しかし、大富豪も青年と交わりながら人生を取り戻していくんですね。キリストは、ひとりでも何にも困らないかたです。
しかし、私たちに呼びかけておられます。さあ、私を救い主として受け入れ、私と組んで、最強のふたりにならないか、と。
どうぞキリストを救い主として受け入れ、永遠のいのちをいただいて下さい。心からお勧めしたいと思います。

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