新約聖書
『 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。 』
(ヘブル9:27-28)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.910 2017年9月3日

「死後の世界の証言者キリスト」

おはようございます、高原剛一郎です!

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ところで、あなたは『かんぺき』という字を完璧に書くことができますか?
“ひらがな” “カタカナ” ではありません。“漢字”で『完璧』を完璧に書けますか?たいていの方はスラスラ書いてくださいます。
完全の完に『壁(かべ)』という字を書かれるんですが、間違いです。
実は『完璧』の『璧(ぺき)』は『壁(かべ)』ではなく、壁の文字の中に点が入ったものなんですね。しかし、そう説明して直ぐに納得する方は少ないです。多くの場合、辞書やパソコンで調べてみて、「アレ?? 本当だ!」とおっしゃるんです。
どうして本当のことを説明されても直ぐに受け入れないで、まず、調べてみるんでしょう。思い込みが強くて、にわかに信じられないからです。あまりにも長い間、当たり前に信じてきたことは、説明を受けても抵抗感の方が強くて簡単に頭が切り替わらないんですね。

神はいないという思い込み

さて、この日本では多くの方々が「神なんかいない」と思い込んで生きてこられたのではないでしょうか。いや、もっと正確に言うとこの世界と人間を造られた創造主がいるとは思わずに生きてこられた方が多いのではないでしょうか。
ですから、この世界が合理的に造られているのを見ても作者の存在を考えるのではなく、偶然にそうなったという進化論の考えの方を信じて疑わず、それが常識となっています。
今、最先端の宇宙論では、人間原理というものが注目されているのです。人間原理というのは、この宇宙は人間が存在できるように微調整されているという考えです。
科学が進めば進むほど、宇宙は人間が存在するのに都合よく、非常に精密にできているということが分かってきたのです。ところが、そんなにも多くのことが見えていても、あくまでも神の存在を認めようとはしないのです。そして、この世界や人の作者である真の神様を無視して生きること、人が作った神を拝むことを聖書は罪だと語っているんです。
どうして、創造主を無視したり、神ではないものに頭を下げることが罪なのでしょう。それは、私たちを生かしておられる創造主に対して失礼なことになるからです。
ある宣教師が天満宮の前を歩いていた時、すれ違った人が道に財布を落としていったことに気付いたのです。宣教師はすぐに拾い上げて落とし主のところに行って渡してあげました。
ところが、本人はこう言ったというんですね、「これはまあ、なんと有り難いことか!天満宮様の前だからこそこんなことが起こったのだ。天満宮様、有難うございます。」と言って賽銭を投げ込んでそのまま去って行ったというのです。
宣教師は呆気にとられるばかりでした。実際に拾って、呼びとめ、手渡してあげた自分には一言のお礼も言わず、何の関係もない神社にお礼を言いに行ったからです。
感謝は実際に親切にしてくれた人にすべきことです。現に助けてくれた人が目の前にいるのに、まるでそんな人などいないかのように無視して、迷信的に賽銭を投げ入れる姿に宣教師はついていくことができなかったのです。

聖書の神は人をつくられた神

ところで、聖書の語る神様は人が作った神ではありません。人をお造りになった神です。
ちなみに、天満宮とは権力闘争に敗れ、太宰府に流された菅原道真のことです。つまり、人間なんです。
しかし、聖書の語る神はあなたの造り主です。あなたを誕生させ、今日まで様々なものを与えて生かし、守り、また、導いてこられたあなたの魂の親なのです。あなたのいのちのルーツなる方です。
この神様を無視して神などいないかのように生きることは、最大の恩を受けながら恩人を無視しているという点で無礼この上ないことなのです。そして、人はこのいのちの源から離れたこと、この罪のゆえに人は死ぬものとなったと聖書は語るのです。
聖書はこう語っています。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

人は一度死ぬというのは100%確実なことです。そして、それと同じ確かさで人は死後に罪のゆえの裁きを受けることが定まっていると聖書は語るのです。
人は死んで無になるのではありません、続きがあるのです。罪を持ったまま死ぬのなら人は罪の刑罰を受けるというのです。これには三つほどの根拠があります。

人にある正義感という根拠

第一に、人間の本性が死後の裁きを予期しているということです。
この世の中では正しいことをしながら罠にかかって汚名を着せられたり、冤罪で不当な罰を負わされたりする人がいらっしゃいますね。そうかと思うと、悪行の限りを尽くしながら権力の座にあるがために誰からも裁かれず、のうのうと生きている独裁者がいます。
この地上の生涯の中には腑に落ちない不公平、不平等、不正がまかり通っているのです。そして、誰からも裁きを受けることなく人生を終える悪人もいるのです。
私たちの良心はそのような圧倒的な不公正を見たとき、このまま何事もなく、結局、悪はやった者勝ちだということに対して承服することができないのです。人間が欲求するものには必ずそれを満たす対象物があるものですね。飢えには食物、渇きには水、探究心には学問上の答えです。とするなら、正義を求める人間の欲求にも必ずや答えがあるはずなのです。聖書はそれが死後の裁きだと語るのです。

キリストの証言の確かさ

第二に、聖書の中でもっとも死後の世界について数多く語った方がイエス・キリストであるということです。
キリストは一度も嘘をついたことがありませんでした。また、キリストの言葉は必ず100%実現してきたのです。ある意味預言者と言って良いでしょう。そのキリストは聖書の中の誰よりも数多く天国と地獄について語っておられるのです。
証言者の真実さがこの証言に信頼性を与えているのです。死後の裁きは確かにあるのです。

キリストによる裁きの解決

第三に、キリストは死後三日目によみがえった上で、天国と地獄について語っているという点です。
つまり、死後の世界を見て、体験して、その上で三日目に復活して語った方の証言なのです。それは、思想や哲学やものの考え方ではなく、事実についての証言なのです。そして、この死後の裁きを語るのは、いたずらに人間を怖がらせるためではなく、死後の裁きからの救いを得させるためなのです。
というのは、いかなる過去のある人、どんなにひどい罪もイエス・キリストは十字架にかかってご自分をささげることで永久に処分してくださったからです。
つまり、この死後の裁きから逃れる手立てが既に完成しているのです。だからこそ、このキリストを受け入れるようにと恐るべき事実について包み隠すことなく語っておられるのです。
ある鳶職の職人が本を書きました。地上数百メートルの所を足場を組んであちこちと飛び回って作業するのが鳶職です。
ところがある時から彼は調子に乗ってしまい、根拠のない自信で命綱をつけずに作業するようになってしまっていたのです。そんなある日のこと、親方が「おーい。」と言って、何と彼を蹴り落としたのです。
ところが、自分の知らない間に命綱がつけられていたために地上に激突することからは免れたのです。怖い思いをさせたのはいのちと繋がらせるためです。
恐るべき聖書の証言は、あなたが偉大なる救い主と繋がるためなのです。
どうぞ、この神の厳粛なことばを真実なことばとして受け入れてください。そして、永遠のいのちを持つためにイエス・キリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。

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