新約聖書
『 わたしは、あなたがに平安を残します。わたしは、あなたがたに私の平安を与えます。恐れてはなりません。 』
(ヨハネ14:27)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.909 2017年8月27日

「迷い、惑いからの脱却」

おはようございます、三綿直人です!

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今朝は「迷い、惑いからの脱却」というテーマでお届けしたいと思います。
さて私たちの住んでいる地球、水星、金星、火星、木星等々、これら惑星なんですよね。惑星の惑は、迷惑の惑、これらの星々を見たとき、そんなに迷惑、困惑の星々でしょうか。
実はこの惑星って、その語源はギリシャ語のプラネテス、からきているそうです。このギリシャ語のプラネテスというのは、さまようものとか、放浪者という意味なんだそうですね。ですから、惑星の惑は、ギリシャ語プラネテスからきているというわけです。
さて、古代ギリシャ人が星々を観測したとき、全く不規則に動いているように見えたんでよね。こっちにあったかと思えば、あっちにある、本当に困惑する星々だ、というわけです。
どうしてさまよう星のように見えたのでしょう。当時の基本的な考え方は、天動説です。地球が中心でそのまわりをこれらの星々が回っていると考えていたんです。
今は地動説です。太陽系は地球が中心ではなく、太陽のまわりを地球含め星々が回っていると、わかってるんですよね。ですから、これらの星々は秩序正しく、規則正しく回っており、迷惑でも困惑でも惑いでもないはずなんですよね。
なぜ、惑星というか。それは天動説のなごりなんです。中心を間違えると、本当はシンプルなものが複雑に見える、ということではないでしょうか。迷い、惑い、困惑するのです。
私たちの人生も同じです。人生の中心を自分に置くと、迷い、惑いの中に入ります。聖書は人間中心ではなく、人間を造られた神が中心であると教え、そこに秩序と法則があると教えているんです。この神を理解することで、少し人生の見方が変わってくるんです。

世界や動物を作られた神様がおられる

先日、富士サファリパークに家族サービスで行ってきました。
子供たち三人連れて、五時半に起きて出発したんです。この富士サファリパークは自分の車で回ることもできますが、バスに乗って動物を見るツアーが人気なんです。理由はガイドさんが動物のおもしろい話をしてくれるからなんですよね。
ラクダのコーナーに来た時、このガイドさんが乗っている人たちに訊きました。「みなさん、あのラクダのこぶには何が入ってるか知ってますか。」
私は心の中で「知ってる、知ってる。」と思ったんです。あれは水ではなく脂肪なんですよね。ですから「脂肪や、脂肪や。」と思っていたんです。
するとそのガイドさんが「あれは水ではなく、脂肪なんですよ。」「へぇ。」と、周りの人が言ってるのをしり目に「それは知ってるで。」と思ってました。
続けてガイドさんが質問しました。「さてラクダはあの脂肪を、エネルギー効率うまいことやって、一日、いや何にも飲まず食わずで、どれぐらい歩けるか、知ってますか。」って言ったんです。私は「知ってる、知ってる。ものの本で読んだことがある。百六十キロぐらいやな。」と思ってたんです。
するとガイドさんが言ったんです。「だいたい百六十キロぐらいって図鑑には書いてますけど、もっと歩けることがわかったんです。」って言ったんですね。
私、びっくりしました。「このラクダはひとこぶ、六千キロ歩けるんです。」「えっー」「フタコブラクダはだいたい一万キロ歩けるんですよ。一万キロってね、東京からロンドンまでです。」どよめきました。
私も心底びっくりしたんです。そしてガイドさんはこう、まとめたんです。「みなさんにもたくさん脂肪ついてますけど、エネルギー効率が悪いからだめなんですね。ラクダを見習ってください。」最近のガイドさんはちゃんとオチまでつけてくれるんやな、と思ってメモをしました。
よくできているものの背後には作者がいます。そのエネルギー効率の仕組みは、人間はまだ、わからないそうです。
さて、よくできているものの背後に知恵と技術が施されているのは当然のことです。動物はよくできています。理性的な判断はどちらでしょう。
いのち、動物は長い時間をかけて偶然に進化したと考えるのか、いのち、動物にはプログラマー、デザイナー、設計者がおられて作者がおられると考えるのがよいでしょうか。
私は理性的な判断は、作者がおられるというものだと思います。そして聖書はこの世界を、動物を、そしてあなたをお造りになった方がおられる、その方が神である、と教えているんです。

神は平安ある人生を実現してくださる

さてこの神である方が、人となってこの世界に来たイエス・キリストのことばを紹介しましょう。

わたしは、あなたがに平安を残します。わたしは、あなたがたに私の平安を与えます。恐れてはなりません。

イエス・キリストはあなたが迷い、惑い、恐れる人生から、平安ある人生に入ってほしいと願って、この世界に来てくださった救い主なのです。では、どのようにしてキリストはそれを実現してくださるんでしょう。
三つのポイントでまとめてみます。

私たちには先のことが分からない

一つめは、人間は羊になぞらえられている、ということです。
ご存じのように羊は近眼です。目の前の羊のお尻しか見てない、と言われています。
イスラエルの学校で、先生が小学生に算数を教えていました。「みなさん、羊が十匹囲いの中にいました。一匹が出て行きました。残りの羊は何匹でしょう。」
ある生徒が手を挙げて答えました。「はい、先生。ゼロ匹です。」周りの子どもたちが笑って、何を言ってるんだという目で彼を見ます。
でもさすがイスラエルの先生ですね。「どうしてそう思うの。」と子どもに訊きました。
するとその子どもはこう答えたんです。「先生、私のお父さんは羊飼いです。そして私の家に羊がいっぱい飼われています。もし、初めの一頭が出て行ったら残りの九頭もそれについて出て行くことになります。ですから、十匹いて一匹が囲いから出て行ったら、残りはゼロ匹です。」
先生はこう応えました。「私は理論を教えようとしてたけど、あなたは現実を教えてくれたね。ありがとう。」
私たち人間は羊になぞらえられています。その通り、周りの人々について行っている近眼な生き物ではありませんか。私たちの行動の動機は周りの人々ではありませんか。
明日を見ようとしても見えないのが私たちではないでしょうか。五年後、十年後を予測する人々がいます。
でも、明日すら見えないのが私たち人間、近眼の私たち、なのです。牧草のあるところがわかりません。いったん迷い出ると、自分の力で戻ることはできないのです。

私たちは守られる立場にある

二つめに、羊が安心して過ごすのは、羊飼いと一緒にいる時です。
羊は自分で自分を守ることができません。武器も持っていません。戦闘能力はゼロです。
私たち人間も強いようで無力ではないでしょうか。いのちについて全く無力なんです。
医学の進歩はすばらしいですが、死の解決を持たない、無力な存在が私たち人間なのではないでしょうか。死に対しての戦闘能力はゼロです。
羊が守られる唯一の方法は、羊飼いと一緒にいること、と私たちはわかりますが、私たち人も、羊飼いである方と一緒にいなければ、弱い存在である、と私は思うのです。

キリストが私たちを探してくださる

三つめに、イエス・キリストは私たちを探し求める、羊飼いである、ということです。
羊は自分の力で戻ることも、自分で自分を守ることもできません。羊が羊飼いを探すのではなく、羊飼いが羊を探すのです。
迷い、惑ってる羊を連れ戻すために、探し回られるのが、あなたの羊飼いであるイエス・キリストです。どんなに立派に見える人でも、羊は羊を導くことができないのです。
神が人となられたイエス・キリスト、このお方だけが、あなたを探し、連れ戻すことがおできになり、平安を与えることがおできになるのです。
あなたが聖書メッセージを聴いているのは、この羊飼いの呼びかけです。偶然ではありません。あなたのそばに羊飼いがおられるのです。
どうか、この羊飼いであるイエス・キリストの呼びかけに、応答してください。心からお勧めいたします。

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