「イエスの流された血の意味」
整形外科で診てもらうと「頚椎症」と診断されました。これは首の骨の間が狭まって、骨の角に出っ張りができ、それが神経に触れて、しびれや痛みが出てくる、というものです。
重労働をしたり、きついスポーツをしてきた覚えもないので「どうしてそうなったんでしょうか。」と訊くと先生はひと言「加齢によるものです。」
私は一瞬、食べ物?と思いましたが、そんなはずはありません。加える歳と書いて、加齢。簡単に言えば、歳をとったから、ということです。
もしかすると他に原因があったり、いい治療法があるかも、と思い、他の整形外科に診てもらっても結果は同じ。それどころか、レントゲンを見ると典型的な頚椎症で「一生付き合っていくしかないですね。」と言われ、落ち込みました。
しかし、他の理学療法士の先生からは「治らないと言われたものが治るように頑張りましょう。」と励まされ、望みを抱いてリハビリに取り組むようになりました。医者のひと言で気持ちもずいぶん変わるものですね。
聖書は血の重要性を語る
そもそも、痛みやしびれの原因は簡単にわかるものではない、と言われます。
私の場合、運動不足と長い間同じ姿勢をとってきたことにより、血液の循環が悪くなり、普通のマッサージでは解消できないほど、老廃物が肩甲骨あたりに溜まっているのではないか、と見立てを受け、その解消のために通院しました。
歳をとると、若い時に持っていた代謝能力が衰えてきます。若い時には身体自身が持っている力で血の循環を保つことができても、ある程度の歳になると、意識的に身体を動かさなければ血のめぐりが悪くなっていくというわけです。
さて、血の重要性をはるか昔から語ってきた書物があります。それは聖書です。
なんと今から三千五百年前に書かれた旧約聖書のレビ記に次のようなことばがあります。
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。」また「すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。」などです。
人のいのちは血によって保たれている
人を創造された神のメッセージによれば、人間にとって血はいのちそのもので重要というのです。
昨今、脳がすべて、脳がいのちそのものと考える人も増えています。確かに脳も重要な働きをしますが、脳に血液が行かなくなると即座に問題が起こります。
10秒以内に意識を失い、20秒以内に脳細胞の電気活動が停止します。そして3分から8分以上、血流の全くない状態が続くと、脳は回復不可能なダメージを受けてしまいます。脳は血で生かされていると言えるのかもしれません。
また、以前は心臓がいのちそのものと思われていました。
しかし、今はある程度、換えが効きます。人工心臓を使って血を循環させ、心臓を数時間も停止させて手術することができるのです。心臓は血を全身に送り出すポンプなのです。
血の取り扱い
旧約聖書を重んじるユダヤ教の人々は、血の取り扱いについてとても敏感です。
彼らは原則、血を食べません。血のしたたるステーキを食べる、という発想は彼らにはありません。どれほどまで血を抜くかは、彼ら自身で規定を作っているのです。
私たちから見れば、極端かな、と思ってしまいますが、彼らなりに真剣なのです。
もっと身近な私たちの生活の中で考えるならば、病院に行って検査といえば、まず血液検査を思い浮かべますね。
身体の様々な状態が血の中に現れます。身体の不調の多くは血液を調べるとわかるのです。
聖書的に言えば、血はいのちそのものだから、血の状態がいいということは、身体のいのちの状態がいい、ということになります。医療関係者たちは使用済み注射針などの処理に細心の注意を払い、血を通して感染する病気に気をつけているといったところでしょうか。
イエスの血によって罪が赦された
さて、聖書が血に注目するのは、それが肉体のいのちに関わるから、ということもありますが、それ以上に私たちの霊、魂に関わっているからだ、というのです。
先ほどみた聖書のことばは、次のように続いています。
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」
贖う、というのは辞書によれば罪の償いをする、という意味です。
死をもって罪を贖う、と言えば、死ぬことによって罪を赦してもらおう、また死んで罪の償いをする、という意味になります。
神は自分の元を離れ、罪の状態に陥った人類をイエスが死ぬことによって、罪を赦そう、償おうとされたのです。
旧約聖書の時代、ユダヤ人は犠牲を捧げる方法を教えられていました。彼らはいけにえを捧げることによって自分たちの罪を神に赦していただき、神との関係を保ち、交わりを深めていたのです。
しかし、救い主イエスがこの地上に来て、新しい時代が到来しました。西暦では、イエスの来られる前を紀元前、来られてからを紀元後と呼びます。今年はイエスの血によって誰もが罪の贖いを受けることができる時代になって2017年目、という意味です。
私たちがよく知っているイエスが十字架にかけられて死なれたというのは、単にかわいそうな結末とか、無残な最期ということを示しているのではありません。
手と足を釘で打ちぬかれ、血が流れました。最後にはローマ兵が心臓を槍でつき、血が流れ出た、と記されています。
その血は全人類の罪の赦しをもたらすために流されたのです。いのちそのものなる血が、それも完全な生涯を歩まれたイエスの血が流されることによって、罪の贖いが完成したのです。
聖書は単なる思想や希望を語っているのではありません。ユダヤ人が実際に何千何万という犠牲を捧げてきたように、イエスという人が2000年前に実際に十字架の上で死なれ、血を流されたのです。
いのちをあらわすキリストの復活
贖うという意味の二番目に、あるものを代償にして手に入れる、また買い求めるとあります。
神は愛するひとり子イエスを代償にして、あなたを手に入れたいと願われました。
イエスをあなたの身代わりにさばいてまでも、あなたを罪の刑罰から救い出したいと願っておられるのです。
罪が赦されたところにあるのは、いのちです。滅びからの解放、死からの回復があります。
あなたの罪が赦される道が開かれたことを示すために、神はイエスを死者の中から三日目に復活させました。イエスの死からの復活はこの救いの道が完成したことを示す最大の証拠なのです。
十字架・復活による神との関係回復
今、多くの人は心に痛みを抱えています。人間関係に痛み、親子関係に痛み、自分に与えられた人生の意味を見失い、心痛めています。その根本原因は創造主を見失い、神とのつながりが絶たれているからだ、と聖書は語るのです。
しかし、神は私たちとの交わりの回復を、罪の贖いを願っておられます。イエスの十字架と復活による救いを用意してくださいました。
ポイントはイエスの血です。私たちの血ではありません。私たちはどれほど血を流しても、がんばっても罪を赦していただける力はないのです。
イエスのメッセージもすばらしいですが、何よりも、実際にあの十字架の上でいのちそのものである血を流してくださいました。いのちをかけてあなたを愛してくださったのです。
ぜひ、あなたも心を開いて救い主イエスに近づいてください。この方を信頼して生きていきます、と祈ってください。心からお勧めいたします。