新約聖書
『 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。 』
(マタイ16:26)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.891 2017年4月23日

「いのちの尊さの根拠」

おはようございます、高原剛一郎です!

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むかし、中国の秦の時代に、韓信という英雄的武将がいました。
まだ彼が世に出る前の事です。彼は仲間たち13人と罪を犯して、首切りの刑が確定します。
処刑場では仲間たちが次々と首を落とされていきます。
いよいよ最後の自分の番に来たとき、韓信は、大声であることを叫ぶことによって助かるんです。一体何を叫んだんでしょう。
「私のような人間を殺してはならない。あまりにも惜しい人材なんだぞ。この国の王は、天下を取るつもりがないのか。もし、天下取りを本気で考えているなら、なぜ私のような人材をみすみす殺すのか」
韓信はその処刑場に、漢の王様・劉邦の片腕、夏候嬰が見ていたことに気がついていたのです。それで、彼の耳に届くように、一世一代のパフォーマンスをしたのです。
夏候嬰は斬首刑を中断させ、個人面談し、韓信の賢さに舌を巻きます。恩赦を受けた韓信は、やがて、漢の国を大成させる人物となるんですね。

聖書が語る人の価値

ところで、彼が人生を諦めずに権力者に訴えることができたのは、自分には必ず生きて成すべき使命と、また価値があると信じていたからです。
自分の命には価値があるので、簡単に死なせるわけにはいかない、と踏ん張ることができたのです。
彼がそのように自分の命を評価することができたのは、彼の実績と自信によるものです。しかし、聖書によると、ごく一部のエリートや天才的人物だけではなく、全ての人間にはかけがえのない価値がある、と語っているのです。
あるとき、イエス・キリストは弟子に言われました。

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

実にストレートなことばです。人は、全世界の富と権力を得たとしても、死んでしまった瞬間、それはぜんぶ他の人のものになります。
この世界のあらゆる物質は、いつまでも持ち続けることはできないものばかりです。ですから私たちは、この世にある何かを得ようと必死になるよりも先にまず、まことのいのち、不滅のいのち、永遠のいのちを持つべきだ、というのです。
そこで今日は、人のいのちが世界よりも尊いと言える三つの理由について、お話ししたいと思います。

神のかたちに似せて作られた

第一に、人のいのちは神のかたちに似せられて造られているので、尊いのです。
明治時代、木村末松というキリスト伝道者がいました。内村鑑三の盟友で、世界一周伝道旅行をした人です。1908(明治41)年、彼はアメリカのバッファロー市の教会に招かれた後、アメリカとカナダの国境のところにある、ナイアガラの滝の見物に出かけます。
そのとき、アメリカ人から「こんなスケールの大きな滝は日本にはないだろう」と自慢されたのに対し、「いや、ナイアガラの滝は私のお父さんが造ったんだよ」と返したのです。
たまたまその会話を聞いていた一人に、新聞記者がいました。彼はデトロイトの新聞に、「ナイアガラの滝の持ち主の息子現る」という記事を載せます。
それが評判になり、アメリカの教会では「ナイアガラの持ち主の息子講演」という表題で、人々が殺到したというのです。
当時の日本は、国力においてまだまだ欧米に追いつけない、小さな存在でした。しかし、木村はまったく自己卑下することなく、いつも堂々としていたのです。
そこには、自分の命のルーツに対する確信がありました。この私は、天地万物の創造主によって造られた作品にほかならない、という確信です。
自然界には偉大な神の作品が無数にありますが、それらの天然の美の中で、最高の傑作は自分なんだ、と考えたのです。なぜなら、自分はこの雄大なる自然界を造られた神の作品だからです。
人は、神のかたちに似せて、人格を持つものとして造られたがゆえに、尊い、と言うことができるのです。

人の魂は永遠に存在する

第二に、人の命は永遠に続くので尊いのです。
確かにこの地上の人生は、80年、90年、長い人でも100年あまりでしょう。
人はいつか死にます。しかし、死は人の魂が消滅してしまったということではなく、人のからだから魂が分離した、ということに過ぎないのです。
からだから離れた人の魂は、永遠に存在し続けます。
私は、はじめの妻を亡くしたとき、数年間、魂の抜け殻のような状態になりました。生き残っている私のほうが、まるで死んだかのように崩れてしまったのです。それは、大切な人との関係が切れてしまうことによってもたらされた、大きなダメージであったのです。
それでもなんとか持ちこたえたのは、私の周りに支えてくれる他の家族や友人達がいたからです。しかし、私たちが罪を持ったまま死ぬなら、私たちはあらゆる存在との関係が切れた世界に落ちていくのです。
何より、私たちの造り主である神と完全に切れた世界に落ちていくことになります。その場合、永遠は嬉しいものではなく、痛ましいものになるのです。
人のいのちは、永遠に続くものです。永遠に続くものが失われるのは、最も大きな損失です。

キリストの犠牲が払われた

第三に、神は私たちの魂をその暗黒の世界から神のもとに勝ち取るために、かけがえのないキリストのいのちで私たちを買い戻してくださいました。
この私たちのいのちの行く末を天国にするため、神はキリストを犠牲にしてくださった、そのことのゆえに、私たちのいのちは尊いのです。
今から10年ほど前、イスラエル軍の軍人、ギラド・シャリートという軍曹が、イスラムテロ組織ハマスによって誘拐され、五年間に渡って監禁されるという事件がありました。
彼の両親は、即刻釈放のために動いて欲しい、とイスラエル政府に訴え続けたのです。そして、2011年、彼は捕虜交換という方法でハマスから解放されたのです。
ところで、このときイスラエルが釈放した捕虜の数は477人でした。たった一人を取り戻すために、イスラエルは刑務所からテロに走った477人を釈放したのです。
その様子を見たアラブの国のひとつ、クウェートの新聞編集者、アクバル・アフマッドという人はこのように書きました。
「ギラドよ、あなたはイスラエルに生まれて幸せだ。そして私たちも、あなたと同じような価値観の国に生まれたかったと思う。一人と何百人を交換する、その価値観を私は心からうらやましいと思う。一人の人間をそのように大切にする人間観に、私は憧れている。あなたの国と、あなたの国民の上に、祝福があるように。」
ひとりのために、477人を躊躇なく手放すという世界観が、かくもうらやましいものであるとするなら、あなたひとりのいのちのために、神のひとり子のいのちを惜しみなく犠牲にして下さった神の人間評価は、もっとすごいものです。
神はあなたの罪を赦し、あなたにまことのいのち、まことのふるさとである天国、まことの魂の親である神との関係を与えるために、イエス・キリストをあの十字架の上で手放して下さったのです。
どうぞ、このキリストをご自分の救い主として信じ、永遠のいのちをいただいて下さい。心から、お勧めしたいと思います。

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