新約聖書
『 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」
イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」 』
(ヨハネ6:28-29)

Default Text

「聖書と福音」高原剛一郎

No.888 2017年4月2日

「キリストへの信頼」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
アメリカの映画監督スピルバーグは幼いときには変わり者で近所のガキ大将からひどいいじめにあっていたそうです。
このいじめっ子に見つかったが最期、噴水機に沈められたり、殴られて鼻血が止まらなくなったり、地面に投げ飛ばされるかんしゃく玉の標的にされるなど、連日すさまじいいじめが続いたのだそうです。
ところがあるとき、スピルバーグ少年は、いじめから逃れる方法を思いつくのです。実は彼は子どものころ、父親から買ってもらった8ミリ録画機で映像を撮ることが趣味だったのです。
彼はこの8ミリを使ってこの乱暴者を出演者として引っ張り出したのです。しかも、このいじめっ子に、弱きを助け、強きをくじく正義の味方の配役を与えたのです。
すると、不思議なことが起こります。それまで乱暴ばかりを繰り返していたその少年が、いじめをやめるようになり、本当に正義感を発揮する少年に変わっていった、というのです。
当然のことながら、スピルバーグに対する態度も変わっていったのです。今まで自分が軽蔑していた少年の才能によって、自分の人生が少しばかり良いものへと変えられていったからです。
ところで、聖書の語る神様は、私たちの人生を新しいものへと変えることがおできになる方です。
破滅から建設へ、滅びから救いへ、怒りと混乱からゆるしと平安へと、私たちの人生を変えていかれる、そして静かな満足に、私たちの心を満たしていく神なのです。
今日は、この神のことばをご紹介いたしましょう。

この世界では努力や成果が必要

あるとき、人々がイエス・キリストに一つの質問をするのです。「私たちは、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」
当時のユダヤ人たちがそう聞いたのには理由があります。彼らは、神に愛され、認めてもらうためには、神の気に入るわざを行わなければならないと考えていたのです。
神が満足するようなことを実行したら神はもっと自分に注目し、認め、そして天国に入れてくれるにちがいない、だからどんな神のわざを行なったら神から「すごい!」と感心してもらえるのか教えて欲しいと言うのです。
人々がそう考えるのは無理もないことでしょう。というのは、この世では、権威ある者から認められるのは、努力して立派な成果を上げた人たちに限られているからです。
奨学金がもらえるのは、とびぬけて成績が優秀な学生だけです。ドラフトで指名されるのは、すごい成績を上げてきた選手だけです。原稿依頼が殺到するのは、有名な文学賞をもらった作家たちだけです。
この世では、何か良きものを得るためには努力と成果がなければなりません。だから、きっと神も、天国に行けるにふさわしい立派な生き方をしてきた人にだけ、ゆるしや永遠のいのちを与えてくださると考えやすいんですね。

父の期待に応えようとした北杜夫

話は変わりますが、ドクトル・マンボウの愛称で親しまれた北杜夫という作家がいました。
彼のお父さんは詩人、歌人の斎藤茂吉です。
偉大な芸術家の息子として生まれた彼は、幼少期には文学とはまったく関係のない少年時代で、もっぱら昆虫採集に明け暮れていたのです。そして長野県の旧制松本高校に進学し、そこで小説家となる先輩、辻邦夫と、トーマス・マンの翻訳で有名な望月一恵と出会い、文学に目覚めるのです。
そのとき初めて、父親斎藤茂吉の歌集を読み、作家としての父を崇拝するようになります。そして自分の二つの趣味である昆虫採集と文学を両立させた、いわば、ファーブル昆虫記のような本を書きたいというふうに、夢見るようになるのです。
ところで斎藤家は先祖代々医師の家系でした。斎藤茂吉も、歌人であると共にドクターだったのです。そして当然のように息子にも医者になることを求めたのです。
北杜夫は文学と動物学、昆虫学の道に進みたいと願いますが、斎藤茂吉は大反対し、お前は馬鹿になったと呆れられてしまうのです。
結局、父の望みどおりに東北大学医学部に進学するものの、授業にはろくに出ず、毎晩、父に内緒で小説を書き続けます。
かばんには卓球のラケットだけを入れて大学に通い、昼はピンポン、夜は仙台銀座で飲み明かすという毎日。それでも父を落胆させないために落第だけはせずに、何とか医学部を卒業し、杜の都仙台と、トーマス・マンの小説からつけた北杜夫のペンネームで執筆し続けるのです。
仙台時代の北杜夫は、父へのあこがれと、父の無理解に対する怒りで葛藤を続ける人だったのです。彼が医学の勉強を続けたのは、それがしたいことだったからではなく、父を喜ばせるために仕方なしに取り組んだことであったのです。

神が求めるのは信頼するということ

それと同じように、イエスに人々は聞いたのです。「神が私たちにしてほしいことは何なのですか」。
それに対するイエスの答えは意外なものでした。
「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
分かりやすく言い換えると、神が人にしてほしいと願っていることは、神が遣わした救い主を信じることなのです。救いは努力することではなく、信頼することなのです。
自分が救われるに値すると証明することではなく、自分がそれに値しないことを知った上で、信仰によって受け入れるということなのです。

キリストの十字架による勝利

聖書は、神にゆるされるために、人がしなければならないことについて書いてある本ではありません。神にゆるされるために、人に代わって神がしてくださったことについて書いてあるのです。
神様はあなたが救われるために、善い行いを要求してるのではありません。神様はあなたが救われるために、キリストが行なった良い行いに信頼することを求めておられるのです。
キリストは十字架の上で、大声で最期にこのように叫ばれました。「完了した」。
あなたの償いが、キリストの犠牲によって完了した、あなたの救いは神の完全な行いによって完成したという、勝利宣言なのです。

神はすでに赦してくださっている

今から十数年ほど前、私はある女性から身に覚えのないことで、かなり厳しいお叱りを受けました。
後にそれは誤解であるということが分かり、この方は丁寧なお詫びの手紙をくださったのです。私もすっきりして、よかったですね。
ところが、この方から毎年、胸が痛くなるようなお詫びの手紙がいまだに届くのです。私の方ではもうすっかり忘れているのですが、彼女の方では決して忘れられないのでしょう。深刻な謝罪の手紙が送られてくるのです。
正直申し上げて、私は読むのがしんどいのです。というのは、こんなに「もう忘れていますよ、ゆるしていますよ、大丈夫ですよ、気にしないでください」と言ってるのに、いえいえまだ気が済みません、と言って書いて寄こしてくるからです。
要するに彼女は、私のゆるしの宣言を信じないのです。
しかし、神に対してはそうであってはならないのです。神様はすでにゆるして、救ってくださったということを、信頼しなさいと仰っているのです。
どうぞあなたも努力ではなく、信頼の選択を選びとり、この方イエス・キリストをご自分の救い主として受け入れてください。心からおすすめしたいと思います。

コーヒーカップ
時計
MILANの消しゴム