旧約聖書
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」
(イザヤ53:6)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.881 2017年2月12日

「人の咎を負われたキリスト」

おはようございます、高原剛一郎です!

カット
何年か前、私達夫婦に数日間、別荘を提供して下さった方がいらっしゃいました。森の中にある別荘で、空気は新鮮、しかも、建物は部屋数だけで十室近くあるのです。
私達が入る前に、ゆき届いた掃除がなされてあり、新しいシーツやコーヒーセットなど、快適に過ごすものは全部そろえてあったのです。私達はそこで、ボリュームいっぱいに上げてギターを弾き、ゴスペルの練習をしたことを覚えています。
ところで、素晴らしい環境の中で、私達は自由に使うことが許されていたんですが、私はこの部屋や建物を汚さないように、傷つけないようにと気をつけました。というのは、この別荘はあくまでも借り物であって、オーナーの厚意によって過ごさせて下さっているからです。
ところが私が何かの勘違いを起こして、「ここは気に入ったから、これから私のものにする」と宣言し、立てこもってしまったらどうなるでしょう。オーナーの主権を無視して居座ったら、もはやお客さんではなく、立派な犯罪者です。
実は、これと同じようなことを人は神に対してしているのです。私達は神が造られた地球に、神の厚意で過ごさせていただいています。神が造られた空気や、水や、エネルギーを使って生きています。
しかし、それらは私達が快適に過ごすために、神が親切で提供してくださったものなのです。この全世界のオーナーを無視して、神などいないという人生観で生きる生き方は、神に対する不遜、また不法侵入者の振る舞いだということができると思うのです。この、神を無視して生きることを、聖書は罪と語るのです。

人は羊のようにさまよっている

さて、聖書の中にこんなことばがあります。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

国際関係の中で、相手の主権領土に乗り込んで侵略すると、武力による抵抗を受けます。大戦争に発展することもあるでしょう。
しかし、人類はこの全世界の主権者に対して、その主権も存在も認めずに反逆しているというのです。
ところが聖書は、この反逆の行為を実にやさしい表現で示しているのです。人はみな反逆者だ、とここでいうのではなく、人は「みな、羊のようにさまよ」っているのだ、というのです。
羊はどこからさまよっているというのでしょう。羊飼いの元から離れ去って、迷子になっているんです。自らの生命線である飼い主を離れ、そして生きているというのです。
そしてこの迷子の状態を、次の行で「おのおの、自分かってな道に向かって」いると表現しているのです。つまり、迷いながら、迷っているという自覚がないのです。間違っていながら、しかもこれは正しい道だと信じて生きている、というのです。
神という絶対的基準を見失っているので、自分自身が中心になっているので、間違っても、間違っているということが分からないのです。そして、私自身の中に、この自己中心性を日々思わずにはおれません。
たとえば、ちょっと大事なメールを送っているのに、いっこうに返事が返ってこないようなことって、日常の中でありますね。そのとき、どうして返信しないんだろう、彼にとっても大切なことなのに、どうして対応が遅いんだろうと、そう思っているときに、だんだんだんだん、いらいらしてきます。しかし、相手はその時に猛烈に忙しくしているかもわかりません。あるいは、何十通もの他のメールを見ているかもしれません。あるいは、もっと深刻な相談事を受けている最中かもしれないのです。それなのに、返事が来ないことにいらだつのは、自分のメールが、世界一重要な内容だと思っているからです。
しかし、重要なのは、自分にとってのみ重要なのであって、世の中はいっさい関知しない内容です。そんな当たり前の事が見えなくなっているのは、神ではなく、自分が中心になって生きているからなのです。そして、この自己中心の人ほど、付き合いづらい人は無いのではないでしょうか。しかし神様は、神から離れて自己中心になり、実に付き合いづらいものとなった私たちを愛し、救い主を送って下さったのです。それは、人間の全ての罪、咎を救い主に背負わせて、罪の解決をもたらすためであったのです。

我がことのように思うほど愛される神

名古屋に住んでいたAさんという方は、教会の日曜学校の先生をしていました。子ども達からも大変に親しまれていたのです。
ところが、大学生の時に、急性白血病という難病にかかり、入院なさるのです。そしてドクターからは、助からないだろう、と死の宣告を受けるのです。
胸がつぶれるような思いで、ご両親が息子のAさんのお見舞いに行くと、Aさんはベッドの上で泣いていたのです。それを見た両親は悲しみで心がいっぱいになり、涙が止まりません。
ところが、Aさんはこう言ったんです。「お父さん、お母さん、僕は、自分が死んでいくことを悲しんで泣いているんじゃないよ。僕はイエス様を信じて、罪赦されて、もう救われているから、天国に行けるんだ。だから、悲しみも恐れもないんだ。でも、お父さん、お母さんはまだイエス様を信じていないよね。だから、死んでしまったら、僕のいる天国に来れないじゃないか。だから、悲しくて泣いているんだよ」
Aさんの言葉を聞いたご両親は、息子の信じているものをもっと知りたいと思って、教会へ行くようになったというのです。
愛って、不思議ですね。人の問題が、自分の問題になるからです。私たちが誰かを愛するようになると、その人の苦しみが自分の苦しみになり、その人の喜びが自分の喜びになり、その人の幸せが自分の幸せに感じるようになるのです。
愛は、相手と一体化させていく力です。そして神様は、あなたを愛するあまり、あなたの将来をわがことのように案ずるお方なのです。
そして、あなたの将来に待ち受けている死後の裁きの問題を解決するために、神は救い主イエス・キリストを送ってくださったのです。
聖書はこう語っています。「しかし、主は、私たちの全ての咎を彼に負わせた。」
彼とは、イエス・キリストのことです。キリストは、あなたが生まれてから死ぬまでの間に犯す全ての罪、咎を負って、あの十字架の上で永久処分して下さったのです。
誰であっても、どんなに醜い過去があったとしても、神は喜んであなたを受け入れて下さいます。なぜなら、その醜い罪は、イエス・キリストが完全に償い終えて下さっているからです。
あなたの罪の身代わりの死を遂げたキリストは、墓に葬られ、死後三日目に復活されました。誰でも、このイエス・キリストを信じるものは、罪赦され、永遠のいのちが与えられ、神の子供とされ、天国に国籍が与えられ、恵みの支配下に置かれ、地上の生涯の全行程において、キリストがエスコートして下さるのです。
どうぞあなたも、このイエス・キリストを、ご自分の救い主として受け入れて下さい。心からお勧めしたいと思います。

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