新約聖書
「イエスは彼らに答えて言われた。『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。』」
(マタイ22:29)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.879 2017年1月29日

「神についての勘違い」

おはようございます、那須清志です!

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最近、イエスキリストを個人的に救い主として受け入れる、信頼する、信じる、と決心した方に4人ほど立てつづけにお会いしました。
80歳を超えた高齢者、小さな子供さんを持ったお母さん、また学生と年齢もまちまちです。大きな病気を患ったり、人間関係に問題を抱えたり、心の状況、環境の違いなどもありますが、共通していることは創造主なる神について考えていたということです。救い主イエスについて、知りたいと願ったのです。そして、本当の救い主に出合った人には、大きな変化が訪れます。抱いていた問題が解決することもありますが、それ以上に、その問題の中でもゆるぎない平安や喜びに満たされるのです。
また、彼らに共通して言えることは、聖書の話を聞いてすぐ理解したわけではないということです。私たちは、多くの勘違いや思い違いをしているのです。

マタイによる福音書22章29節

次のような聖書の言葉があります。

イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」

今日は、創造主なる神について考え求めていく上で、勘違いしたり誤解したりしやすい3つのことを考えていきましょう。

造り主である唯一の神がいる

まず最初は、神だったらどんな神様を信じても同じじゃないかという考えです。
聖書は、この天地万物、私たちを造られた神は唯一の方だと語ります。これは、好みの問題ではありません。同じ野菜でナスビとキュウリとどっちが好きという問題ではないのです。神はいるかいないかどちらかなのです。神がおられるのならば、神はお一人か、また多数いるのかのどちらかなのです。好き嫌いの問題ではなく、本当かウソかの問題なのです。
私の知り合いに日展に何度も入賞されている、芸術家の方がおられます。その方の作品を見て「素晴らしい」というのは作品に向けてですか、作者に向かってですか。もちろん、作者に向かってですよね。作品が賞をとって、いざ授賞式のときに、作品の前に賞状や賞品をお供えしたりすることはないと思います。作者の隣にいる人にあげるということもないでしょう。作品を作った作者に栄誉を与えるのです。
この世界を造られた神を知り、その方に栄光を帰すということは、特別なことではなくごく当たり前のことなのです。それをしなかったり、作者以外に敬意を表するのは、本当の作者に対して侮辱であり、的外れとは思わないでしょうか。聖書は、私たちを造られた本当の唯一の神がおられ、その方を見出すようにすすめています。そして、本当の造り主を知ることほど嬉しいことはありません。私を造った方こそ、私が生きる目的を教えることができ、最高の人生の歩み方をアドバイスできるからです。

存在を認めるだけでいいわけではない

次に取り上げたいのは、創造主なる神は信じているからもうそれで十分じゃないか、という考えです。
この世界を創造した神の存在を信じている人は、世界中にいます。実は、世界レベルで考えるならば、信じている人の方が多いのです。しかし、それは神は存在するということを認めているにすぎません。ちょうど、自分を生んでくれた父母の存在は認めるけど、交流もなく特別な関係でもないのとよく似ています。
さらに問題は、神のご性質は思いについて全く考えようとしないということです。私たちを造られた神は、同時に正義と公正なる方です。悪に対して裁きを下し、刑を実行する方でもあるのです。愛にあふれた恵み深いという神の性質は皆受け入れやすいし、比較的信じやすいものですが、公平に裁かれる神というもう一つの面はなかなか受け入れにくいのです。
神を信じているから大丈夫という人は、神の正義という面に気づいていないか、故意に無視しているのかもしれません。聖書から見ると、人間は神の前に不完全な罪の状態に陥り、このままでは人は皆自分の罪の中で裁かれ、永遠の刑罰に服さなければならないと言われ、この罪の問題を真剣に考えるべきだと何度も警告されているのです。

好奇心と冒険心で未知の世界に挑む人

最後はイエスキリストに関してです。
創造主なる神はなんとなくわかるけれどイエスキリストとの関係が分からん、と言われる方がおられました。イエスは神様みたいな立派な人間とだけ思っておられる方が多いのです。教科書ではブッダ、孔子に並ぶ3大聖人のひとりと紹介されていますが、それは聖書の説明とずれています。聖書から見ると、イエスは創造主なる神が肉体をとって、人の姿になってこの地上に来られた特別な人間だというのです。
ところで、地上で一番高いところはチョモランマ、いわゆるエベレスト山の頂上ですね。8850メートルほどあります。そこまで行った人間は、これまで4000人ほどいるそうです。これは私の予想を超える人数でした。そして、これからも毎年増え続けていくようです。では、地球外ではどうでしょう。月に降り立った人間は、これまで10人程度。これはかなり特別な感情を与えます。でも地球の中に人間が3人ほどしか到達していない、秘境の地がありました。それは、海の底で最も深いところです。マリアナ海溝のチャレンジャー海淵で、水深11000メートルほどです。ということは、エベレスト山をひっくり返してもまだ2000メートル近く届かないほどの深い所です。人間は知的好奇心と冒険心で未知の世界に挑みます。

神は罪の解決のために地上に来られた

しかし、神はご自分が造られた世界の中で人間の姿をとって来て下さったというのです。それも単なる好奇心で来られたわけではありません。栄光や賛美を受けるために来られたわけでもありません。全く逆です。人間の罪を背負い、身代わりに十字架の上で裁かれるために来られたのです。これこそ、大昔から神が立てておられた計画で、今から2000年前に実際に実行に移された全人類のための救いの御業だったのです。神はイエスキリストを救い主として私たちに紹介してくださいました。人間の罪を背負う資格があるのは、自らが全く罪のない聖い者でなければなりません。
一般的に聖人と言われる人は、自分の弱さを認め、自分の不完全さを嘆くものです。しかし、イエスの中に罪を見出すことはできません。完全な人だったからこそ完全な救いをもたらす資格があったのです。
イエスは死者の中からよみがえらせることによって、その救いの確かさを証してくださいました。イエスキリストだけが人間に永遠の救いをもたらす神の方法です。イエス以外にあなたの罪の身代わりとなって死んだ方はありません。イエス以外にあなたのために死を突き破ってよみがえった方はありません。人間に与えられた愛は素晴らしいものです。しかし、その愛には限界があります。どれほど愛を尽くしても愛する人を罪の刑罰から救い出させる愛をもってはいません。しかし、神の愛はそれを可能にするのです。人間に素晴らしい愛を与えられた神は完全な愛を持たれた方です。
あなたを造られた唯一の神が、永遠の滅びに向かっているあなたを、自分のいのちと引き換えに救い出そうと願っておられます。
あなたも是非、創造主なる神について求めて下さい。神が用意されたイエスキリストについてお考え下さい。神はイエスキリストを通して与えられる救いをあなたに受け取ってほしいと願っておられます。

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