「神の賜物を受け取る」
彼は、この日本で道徳を教えるのは本当に難しいって言うんです。と言いますのは神が分からない国民だからだって言うんです。全宇宙を造り、人間を創造した絶対者がいたら、いちいち道徳に説明は要らない。神様がそう言ったからそれは正しいんだでスパッと決まると言うんです。
ところが神という前提がないならば、善をすることにおいても、悪を禁ずる事においても、いちいち理屈をつけなくてはならなくなります。「いいことをしたら気持ちがいいからいいことしましょう」とか言わなければならない。何の前提もなしで道徳を教えるというのは至難の業だ。どうして牛は殺してもいいけど人を殺してはいけないと生徒に質問されたとき、どれぐらいの先生が納得できる説明が出来るだろうと書いてありました。
テトスへの手紙3章4,5節
ところで神様は道徳を知っていても自然と不道徳な方向に流れていく人間のことを一体どのように見ておられるのでしょう。聖書にこう書いてあるのです。
しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現れたとき、 神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。神は人を愛されるお方
第一に、神様は救い主の観点で人間をご覧になっているということです。
神は罪人を憎々しげに睨みつけているのではありません。慈しみと人への愛でご覧になっていらっしゃるのです。
ところで日本は世界に冠たるアニメ大国、漫画大国ですね。この日本漫画会の草分け的存在で、今も活躍する多くの漫画家たちに絶大な影響を与えた大家に、手塚治虫がいます。私も手塚ファンの一人で彼の作品によって随分励まされたり、慰められたりしたもんです。
この手塚治虫が戦後数年間にわたって最大のライバルと見ていたのが福井英一という漫画家でした。彼は『イガグリくん』という柔道漫画で爆発的なヒットを飛ばすのです。
手塚は嫉妬のあまりイガグリくんの悪口を少年漫画誌の紙面で展開してしまい、それが大問題になったことがありました。
ところがある日のことその最大のライバルであった福井英一が過労で急死してしまうのです。その時の気持ちを手塚は正直に告白しています。
「これで最大の競争相手がいなくなったと思うと心底ほっとした。ああ、僕は何とけがらわしい人間なんだろう。」
彼は正直ですね。同じ漫画家が壮絶な死に方で亡くなったとき、悲しむべきだと思ってるのにほっとしている。そして、そんなことにほっとしている自分が嫌で嫌でたまらなくなっているのです。
私にはこの気持ちが痛いほどわかります。私もこれまで何度となく嫉妬で身を焦がしたことがあるからです。自分で軽蔑するようなことを思ったり、口にしたり、おこなったりしてしまうと人は自分自身の存在までも軽蔑してしまうようになります。
しかし、神は罪を憎みますが、罪を悲しむ人を慈しまずにはおれない方なのです。神は立派な人間、高貴な人間、英雄的な人間を愛するのではなく、罪によって惨めさをかみしめる人を愛しています。なぜなら神様の愛は神のご性質が愛なのでうまれる愛であるからです。
人の在り方には影響されません。神は愛なのであなたを愛してくださるのです。
「良いこと」は罪の解決でない
第二に、人は自分の正しい行いによって自分の罪を打ち消したり、自分の罪の裁きから救い出すことは出来ないのです。
昔、本居宣長という学者がいました。彼は大変真面目に人生と向き合った人でした。正しく生きることに努めた人です。ところが、どうしても時に良心に恥ずべきことをしたり、言ったりしてしまう。そこで自分を戒めるために、悪を行う度に柱に釘を打ち付けることにしたのです。
ところが日がたつに連れて柱はクギだらけになってしまい、もはやこれ以上クギを打つスペースがなくなってしまったのです。そこで彼は良いことをしたときにはクギを抜くことにしました。
やがて努力したかいもあり柱からは全てのクギを抜くことが出来ました。しかし、彼は柱を見ながら言ったのです。「クギは抜けたがクギ跡は残ったままだ」。
良い行いは、過去において仕出かしてしまった消すことは出来ないのです。また同時に良い行いによって神様の愛を一層受けるということもありません。良いことをするというのは大切な事だと思います。しかし、良いことをしたからといって神様の愛が増えたり減ったりするということはありません。また良いことをしたからといって過去に罪が消えたりなくなったりするということもないのです。
こと罪の解決ということについて良いことは何の力にもならないのです。
キリストを信じるだけでいい
第三に、キリストがあなたの罪をあなたに代わって償ってくださったということです。
このキリストによる救いを信じて受け入れた人には神が聖霊を与えてくださいます。聖霊というのは神の霊です。イエス・キリストを救い主として信じる人には神の霊がその人に与えられるのです。
神の霊は罪をきよめられたところにしか住みません。神はキリストを信じた全ての人を新しく造り変えてくださると言うのです。
人がすることは何にもありません。神が代わりにしてくださったからです。世の中にはいろんな宗教がありますが、皆救われるためにはあれをしなさい、これをしなさいと行うことを命じます。
しかし、聖書だけは人にしなさいと命じません。神がしたからです。人に行えとは言いません。キリストが行ってくださったからです。あなたのために死んでよみがえったイエス・キリストを自分の救い主として信じるということだけでよいのです。
イエス・キリストをたべる
ところで昆虫の一種に「カゲロウ」という生き物がいますね。幼虫時代は水の中で約一年間生活し、やがて孵化して成虫になるのです。ところが成虫として生まれ出た後はわずか数日、あるいは種類によってはたった数時間で死んでしまうのです。実に儚い昆虫です。それで「カゲロウのように短い一生」という表現があるほどなのです。
ところでどうして生まれてきてわずか数時間しか生きられないのでしょう。実は成虫のカゲロウには胃袋がないのです。消化器官が一つもないんです。つまりこの虫は成虫として生まれると死ぬまで何も食べない虫なのです。
何も食べないまま交尾をし、卵を産み、子孫を残すんです。それだけの活動をしながら外からのエネルギーを一切補給しない、そのためにあっという間に死んでしまうのです。
生きて行くためには食べなければなりません。そして食べるという行為は突き詰めて言うなら命を食べ取り入れるということなのです。自分以外の命を取り入れ、他の命を食べることで私たちはこの肉体の命を維持しているのです。
それと同様に霊的ないのち、復活のいのち、天国に至るいのちはイエス・キリストといういのちを食べることによって初めて自分のものとして得ることが出来るのです。
イエス・キリストを食べるとはどういうことでしょう。イエス・キリストを信じるということなのです。
どうぞあなたもこのイエス・キリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。