「神をほめたたえよ」
ところで、天才画家といわれるゴッホは、模倣の天才でもあったのです。代表作のひとつ『種まく人』は、ミレーの『種まく人』の人物が丸写しされています。また、『レストランの内部』という作品では、ジョルジュ・スーラと同じ技法で描かれているんです。
つまり、彼は「これは一流だ!」と思うと、それに対して張り合うのではなく、その素晴らしさを認めてどんどん取り入れることによって成長していった人なんです。偉大なものを、偉大だ、と認めるということから全てが始まったんですね。
さて、聖書の中に、最も偉大な存在である神をほめたたえることばがあります。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
ここに、神がほめたたえられるべき3つの理由が見て取れると思います。神をほめたたえることは当然
第一に、神は全てのものの作者であられるので、ほめたたえられて然るべきである、ということです。
今年も、日本人の科学者がノーベル賞を受賞しましたね。大隅良典さんが、ノーベル医学・生理学賞に輝いたのです。細胞が自分自身を食べて生きのびる「自食作用(オートファジー)」の仕組みを解明されたんですが、これは将来、夢の認知症特効薬の開発につながるかもしれないと言われてるんです。
ところで、全人類の幸福に貢献する偉業を成し遂げたことに対して、最大級の賞賛があつまるのは当然の事だと思います。しかし、そうであるならば、それ以上に全人類からの賛美と礼拝を受けて当然のかたがおられるように思うのです。
それは、全てのいのちあるものの作者にして、その命を支えるために必要な全てのものをお造りになり、無償で提供しておられる、神です。
私たちは毎日、空気を吸い、水を飲み、太陽の光を浴び、地面から取れる作物や生物を食べ、地中から石油やガスをくみ上げて、それをエネルギーとして使っています。これらの、空気も、水も、太陽も、食物も、エネルギーも、全て人間が造ったものではありません。神の作品なのです。
私たちは、神様からのもの無しには、一日も生きていくことができないのです。いわば、神は私たちの作者にして、命の恩人なのです。この偉大なる神をほめたたえるということは、人として当然の事だと思うのです。
キリストは身代わりになられた
第二に、神は私達の罪をあがなうために、イエス・キリストを十字架の上でさばいてくださったことです。
私達にとって死は避けることができないものですね。死にたい人は死ぬけど、死にたくない人は死ななくてもよい、というような選択の自由がないのです。死にたい人も、死にたくない人も、時が来れば死に飲み込まれてしまうのです。
昔、戦争中に精神科のドクターとして勤務されていた方のエッセイを読んだことがあります。彼の勤務していた病棟では、生きる気力をなくしてしまわれた方や、死にたいと願う方達がたくさん入院していたそうです。
日本は国を挙げて戦争しているのに、自分でもどうしようもできない病に打たれているのです。そして、そのためにベッドから起き上がることすらできない方々が入所されていたのです。ところが、昭和20年8月15日に終戦を迎えてしばらくした後に、起き上がれないはずの患者さんたちがいっせいに姿を消したというのです。それは、米軍が日本に進駐してきたときに起こったことです。
じつは、こんなデマが飛び交っていたんです。「日本に乗り込んできたアメリカの兵隊達は、今までの恨みを晴らすために、日本国民を痛めつけにやってくるだろう。そして、誰よりも真っ先に、病院に入院している、抵抗できない人達のことを殺しにやってくるだろう」。
その米軍がいよいよ日本にやってきたというニュースを聞いた患者達は、一晩のうちに自分達で病院を脱出し、山を越えて逃げ出していったというのです。その多くの方々は死にたいと言っていた方々でしたが、具体的な死のイメージが身に迫ったとき、今まで眠っていた命に対する欲求が目を覚まして、ある種の回復をしてしまったというのです。
死の持つ力はなんとすさまじいことでしょう。人がこのように死を恐れるのは、死の次に来るものがまったく分からないからです。
しかし、聖書ははっきりと語っています。人は罪を持ったまま死ぬと、永久のさばきに遭います。このさばきから人を救い出すために、キリストはご自分の身に私達の罪のさばきを引き受けてくださいました。
あなたのために代わりに死んで下さった方が、イエス・キリストです。この、身代わりの犠牲を遂げてくださったことのゆえに、神はほめたたえられるべきなのです。
人生の終着地
第三に、キリストは死んで三日目に復活することで、死そのものを滅ぼしてくださったことのゆえに、ほめたたえられるべきなのです。
飛行機に乗って旅に出ると、機内サービスが嬉しいですね。私は海外に出るときは、機内上映のビデオを何本も見ます。また、好きな飲み物をいただきます。機内食も熱々のものをいただけますから実に楽しみです。途中、立ち上がって屈伸運動をしたり、伸びをしたりして体をリラックスさせます。客室乗務員の方とのおはなしを楽しむこともあります。
しかし、着陸が近づくと、全員が着席しなくてはなりません。前のテーブルは直さなければなりません。シートベルトをかけなければなりません。背もたれも元の位置に戻さなければなりません。今までやっていたことを、止めなければならないのです。着陸が近づいたからです。
そのときに、このような制限を不満に感じる人はいないと思います。それより、着陸した後の事に思いをはせるのではないでしょうか。
飛行機は、ただ飛ぶということに目的があるのではなく、目的地に無事に到着することに目的があるのです。
人生も同じです。次の目的地に近づいて来るにつれて、いろんなことができなくなります。老いて、目が見えなくなったり、耳が遠くなったり、記憶が失せていったり。
それらは、死に対する備えをさせるためのものです。
人生の本番は死後にある
あなたには、ご自分の魂の目的地がはっきりと見えてらっしゃいますか。キリストは、天国という究極の目的地に行くための準備を、あなたに代わって成し遂げてくださった方なのです。
そして、もし、次に行くところが天国であるなら、死はなにも恐れる必要がありません。キリストは、この生ける希望をあなたに提供するために来られたのです。
先日、ある本に興味深いことが書かれていました。ボクシングの日本チャンピオンだった選手達は、チャンピオンベルトを失くしてしまうことが多い、というのです。減量して、トレーニングをして、スパーリングをして、身を削って勝ち取った日本チャンピオンベルトは、苦労した選手達にとって宝物であるはずなのに、いつの間にかどこかに失くしてしまった、見当たらない、という人が多いというんですね。なぜでしょう。
彼らにとって究極のゴールは世界チャンピオンベルトであって、日本チャンピオンベルトは通過点に過ぎないからです。ですから、それらに対する執着する気持ちが少ないのです。
天国を得た人は、地上のものへのこだわりから解放されやすくなると思うのです。人生の本当の本番は、死の次に来ることを信じているからです。
一番でっかい希望が一番最後に待つ人生とは、素晴らしいものであるとは思いませんか。
どうぞ、あなたもイエス・キリストを信じてください。心から、お勧めしたいと思います。