旧約聖書
「わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。」
(エレミヤ2:13)

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「聖書と福音」高原剛一郎

No.845 2016年6月5日

「祝福を妨げる思い込み」

おはようございます、高原剛一郎です!

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先日、雑誌で「危険な素人判断」という特集を読みました。昔は体の調子が悪くなると病院へ行って、医者に診てもらう人がほとんどですね。ところが最近は、病気の原因や症状をインターネットで簡単に調べられるようになりました。それで素人による診断ミスによって、時折大変なことになることがあるというんですね。
ある国の病院に足のつま先が壊疽になっている患者が来院されました。ところが本人は抗生物質で治るのでもう病院に来なくても大丈夫だと言ってきかないのです。とにかく自分の体のことは自分が一番知っていると言って、抗生物質を持って帰って行ったそうです。医者は別れ際に、「何か変わったことがあればすぐに病院に来るように」と言っておいたのですが、次の日、彼はやって来て言ったそうです。「先生、指、とれました」。
別のケースでは、貧血症の女性患者が輸血のために運ばれて来たそうです。彼女は生まれつき代謝に問題があって、ドクターはビタミンB12を摂るように処方したのです。ヘモグロビンを造るためにはビタミンB12が必要なんですね。彼女は薬局に行きましたが、たまたまB12が無かったんです。いったいどうしたでしょう。ビタミンB6を買って、2倍飲んだんですね。B6を2倍するとB12になると考えたんですね。これでは良くなりません。健康回復のためには正しい診断と共に、正しい治療、この両方が必要なのです。そしてこのことは、人生についても言えることなのです。

聖書が語る不幸の原因

聖書は人間の不幸の根本原因を次のように診断しています。

わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

ここに人が不幸になる二つの原因を語っています。

いのちの泉である神から離れている

第一に、いのちの泉であるまことの神様から離れて生きているということです。
聖書が語るまことの神様とは、あなたの造り主、支え主、生かし主である方です。そしてここでは、神はご自分を泉にたとえておられるのです。砂漠地帯が多い中東では、泉を離れて生きることはできません。水こそは人間の生命線なんですね。
実は私の住む大阪には、日本有数の水族館、海遊館があります。こちらには14の巨大水槽があって、そこに620種類、3万点の海洋生物の生態を見ることができるんですね。ところでこの水槽を満たしているのは、自然な海水です。1万6千トンもの海水がフィルターを通しオゾン殺菌されたうえで、管内の水槽を巡っています。ところが、この海水は、毎月毎月2千トンずつ蒸発してるんですね。
そこで海遊館では常に最新最適な海水を和歌山の日御碕の沖から運んで供給し続けてるんですね。もし外からの海水供給が止まってしまったら、水槽の生物はどうなるでしょう。一月二月はやっていけるかもしれません。しかし、計算上、8か月で完全に干上がってしまうのです。そうすると全滅です。

神から離れた人間は死につつある存在

海洋生物にとっては海水は生命線です。海水の無い陸に上がれば魚は窒息死してしまうのです。なので、魚やサメやエラ呼吸する海洋生物は、海から離れようなどとは考えないのです。それは自殺行為であるからですね。彼らは海の中で生き、動き、存在するように造られているのです。水の世界から離れるということは、そのまま死に直結しているのです。
それと同じように、人は神の中に生き、動き、存在するように造られているのです。神という作者とつながることで、生き続けるように設計されているんですね。ところが最初の人間、人類の祖先であるアダムが神から離れた結果、人は死ぬものとなりました。
海遊館の海水供給はストップしてもすぐに干上がることはありません。8か月後に底をつくんです。それと同じく、神から離れた人間の肉体のいのちはすぐには死にません。
ある人は8か月、ある人は80年以上生きるでしょう。しかし、永遠に生きることはできないのです。人は死につつある存在となってしまったのです。この死の解決を持たない不幸が、人間を悩ますんですね。

造り主以外に満たすものを作り上げた

第二に、人が行った悪は、自分の造り主の代わりに自分を満たし、支えてくれそうなものを勝手に作り上げていったということなのです。
本物の作者から離れた人間は、自分の気に入る他の神々を作って、それに頼って満ち足りた人生を作り上げようとした、またしているのだというのです。しかし人間は、神以下のもので完全に満たされたり、平安を持ったりすることはできません。
1848年、アメリカのカリフォルニアの開拓者にジョン・サッターという人がいました。この人の所有地に金が発見されたのです。ふつう、金というのは地下深くを掘り進んで行かなければとることができません。しかし、サッターの所有地に発見されたのは地面に金が露出しているのです。川の砂の中に、純度の高い砂金が露わになっていたのです。彼は自分の所有地が一夜にして金の山になったんですね。この結果、彼は全米ナンバー1の超大金持ちになるはずだったのです。
しかし、そうはならなかったんですね。この金発見のニュースが伝わると、全米から一攫千金を夢見る男たちが殺到し、彼の所有地に無断で入り込んで金の盗掘を始めたのです。しかし、それを食い止めることは大変に難しいことでした。というのは、カリフォルニアというのは、日本と同じくらいの面積があるのに白人は1万2千人しか住んでいないのです。サッターの所有地だけで200キロ平米あったというふうに言われています。だからとてもでないけれども、目が届かないんですね。
そこでサッターがとった手段は、法に訴えるということでした。不法侵入者に対して大規模訴訟を起こしたのです。当時この裁判は長引いたんです。彼は人生と財産のすべてを使い切って破産してしまうのです。

自分を守ってくれそうなものを守る心配

もし金さえ発見されずにいたら、彼は全米有数の農場経営者として充実した人生を送っていたことでしょう。いったいどこで間違え、どうして無一文になってしまったんでしょう。本業を疎かにし、争いごとに勝とうとして、すべてを費やしてしまったというところにあるんですね。しかし私は彼がそうせずにはおれなくなった気持ちも分かるような気がするんです。
私たちは自分を守ってくれそうなものを持てば持つほど守ってくれそうなものを守るための心配が出てくるのではないでしょうか。人を満たし、死の解決をもたらすゴールはいのちの泉であるまことの神様のもとに戻る以外にはないのです。
そしてあなたがいのちの泉に立ち返れるように、イエス・キリストは十字架にかかり、死んで、3日目に復活することで救いを用意してくださったんです。どうぞ、あなたもイエス・キリストをご自分の救い主として信じ、受け入れてください。心からお勧めしたいと思います。

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