「正義と愛の出会う場所・十字架」
今から60数年前、アメリカハリウッド映画に「聖衣」という作品がありました。聖なる衣と書いて「聖衣」です。これはイエス・キリストが十字架にかかる直前まで身に着けていた上着のことなのです。
この映画を作製するために、二千人以上のエキストラが集められました。当時はコンピュータグラフィックの技術がまだありませんから、何から何まで、実写する以外にありません。それで二千人以上のエキストラに、二千年前のローマ時代の衣装を身に着けさせて、撮影したんです。しかし、撮影前に助監督が高台に立って、念入りにチェックする必要があったのです。というのは、着ている衣装はローマ時代のものなのですが、着ている人々は現代のアメリカ人だったからです。それで助監督はスピーカーで指摘するんですね。
「そこの人、腕時計とりなさい。」「後ろの人、ガム噛むのやめろ。」「端っこの人、ネックレス外しなさい。」
エキストラたちは二千年前にはなかった物を身に着けてたんですね。それは、二千人も人が集まってたら、自分一人くらいは手抜きをしていても見つからないだろう、という侮りがあったからです。しかし、見る人には見えるですね。
ペテロの手紙第一3章18節
今、この世界には73億人の人間が生きています。いかにたくさんの人間がいたとしても、一人一人をご覧になってる方がおられるのです。それは、あなたをお造りになった神です。この世界の創造主なのです。今日はこの創造主、神のことばをご紹介いたしましょう。
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。
ここから、三つのポイントでお話いたしましょう。罪とは神のみもとから離れること
第一に、罪とは、神のみもとから離れることである、という点です。
神のみもとから離れる、とは自分の造り主との関係を断ち切って神などいないという人生観で生きることなのです。どうしてこれが罪と言われねばならないんでしょう。恩知らずなことだからです。
少し前の話ですが、私はある女子高生の話を聞いたんです。実は彼女は新入生となったことで親からおしゃれな自転車をプレゼントされたんです。家から最寄駅まで二十分ほどかかります。クラブ活動で遅くなる日もあり、安全ために新しい自転車を買ってもらったんですね。ところが乗って数日もたたないうちに、それを盗まれてしまったのです。
彼女は警察に届けるだけではじっとしていられなくなり、来る日も来る日も駅をいくつも捜してまわったんですね。その間駅までは歩いて通ったそうです。そして捜索二カ月あまり経った時、とうとう彼女は盗まれた自分の自転車を発見するんです。
ところで、その自転車を見ると、とられた時にはなかったカゴが付いていたそうです。さらに荷台にピンク色のゴムひもが巻きつけられていたそうです。そして自分の名前の部分はきれいに削り取られていますが、その削り痕が自分の名前だっていうんですね。驚くべきことに鍵が二重にロックされてる。
ドキドキしながらその自転車を触っていると、今の持ち主がやってきたのです。そして「ちょっと、何してるの。」と詰め寄って来たんですね。彼女は勇気を出して「これは私のものです。あなた盗んだでしょう。」と叫びたてました。すると相手は「うるせい。」と罵りながら彼女に詰め寄って来たので、携帯電話で110番をかけ始めると、突然走り出したっていうんですね。
まあ、よく無事ですんでよかったね、と労ったのですが、盗まれた自分より、盗んだ犯人の方がすごい剣幕だったので、後になってから腹が立って仕方がない、と言ってました。厚かましいのにもほどがある、というわけです。
私たちは神様のゆえに生きている
ところで、神さまの主権を認めないということは、あの自転車泥棒の態度と本質的には変わらないのではないかなと私は思うのです。というのは、私たちはみな、神がお造りになったものをただで使って生きているからです。私たちが生きるためには、地球が必要です。水も必要です。太陽も必要です。エネルギーや重力も必要です。空気がなければ、十分と生きていることはできないでしょぅ。そして今言った、なくてはならないものは、みな人間の手による作品ではなく、神の被造物、神の作品なのです。
私たちは神の所有物を使って生きていながら、しかもその持ち主を無視するというのは、厚かましい話ではないでしょうか。ですから、作者である神から離れ、その主権を無視するということを罪と、語るのです。
神は人となられた
第二に、神は人となってこの世に来てくださいました。この人となった神こそは、イエス・キリストです。そしてイエス・キリストは正しい人と、先ほど読んだ聖書の箇所で呼ばれてるのです。
近年、世界中でテロが吹き荒れていますね。とくに中東諸国ではテロ組織が勢力を拡大しています。その代表はイスラム国です。自分たちに従わない者はすべて首をはねて殺すという無法者集団です。
ところでこのようなおぞましいテロ集団が、わがもの顔にふるまい、のさばり、はびこる前には、必ずあることが起こっています。そのあることとはなんでしょう。国家の中に権力の空白地帯ができるということなんです。
法を守らせる強制機関が消滅しているということです。罪を罰する警察力が機能しない状態になる時、無法者集団がはびこり出すんですね。
キリストは人間の罪を背負われた
神から離れた人間の社会は、いつでも無法者集団となる素質があります。この神から離れた世界にキリストは正しい方、正義を実行する方として登場なさいました。ただし、ご自分が人間の罪を負って、ご自分がさばきを引き受けることによる、神の正義の実行なのです。
キリストは私たちの一切の罪を背負って、十字架にかかって死んでくださいました。そして三日目に死を突き破って、よみがえってくださったのです。これによって、過去にどのような罪を犯してきた人であっても、キリストの償いの故に、神のみもとに帰ることができるのです。
こんな詩があります。
「ベルはベルではない。君がそれを鳴らすまでは。歌は歌ではない。君がそれを歌うまでは。愛は愛ではない。君がそれを誰かに与えるまでは。」
神さまはあなたを心の中で愛するだけではなく、実行に移してくださったのです。神さまの愛は、あのイエス・キリストの十字架の上で、いかんなく現されているのです。主は再び来られる
第三に、キリストは再び来られる方である、ということです。
資本主義経済の国では、どんな会社がどんな事情計画をし、どれだけ儲けようが、どれだけ損害を受けようが、放任していますね。自由主義経済の特徴は、政治権力による介入を控えるということにあるんです。自由にやらせるというところにあるんですね。
しかし、このままなら世界的大恐慌に至るような緊急事態の時に限っては、大々的に国家が介入するんです。
この世界が人類のコントロールが効かなくなるひどい時代に入る時、キリストは再び来られて、世界をお裁きになると聖書は語っています。
どうぞあなたもその恐るべき時代が到来する前に、この恵みの時に、イエス・キリストを信じてください。心からお勧めしたいと思います。