「聖書は信じるに値することば」
先日、私はイスラエルに行ってきました。この国は何度行っても本当に不思議な、魅力のある国です。今から二千年前にイエス・キリストが実際に歩かれた道や、見ておられた山や湖が、そのまま現実として目の前に存在している国なんですね。
イエス・キリストの存在は、歴史的な事実です。聖書以外の文献にも、イエスの名前は登場します。それらによると、このかたには不思議な力があり、民衆の心をひきつけた。どういうわけか十字架にかけられ、死にます。しかし、その墓は存在していません。その後、イエスの弟子といわれる人たちが、イエスはよみがえった、人間は死んで終わりではない、イエスを信じるものには永遠のいのちがあるという、いわゆる福音を命がけで言い広め始めるんです。そして、瞬く間にユダヤ地方からローマ社会にまで広がっていきます。
弟子達は、イエスが十字架にかけられたとき、見捨てて逃げ出した人たちです。その彼らがなぜ、イエスの死後わずか二ヶ月足らずでこのように豹変したのか。謎です。
イエスは確かに復活された
小学校の頃、算数で虫食い算というものを習いました。2×□=10、□の中には何が入るでしょうか、というやつです。答えは5ですよね。前後から答えが導かれます。さて、逃げ出した弟子がなぜ、殺されるとわかりながらこの福音を言い広め始めたのか。導かれる答えはひとつです。イエスの復活。
なぜ、そんなことがいえるのか。人間にとって一番大切なもの、それは命ですよね。この一番大切な命を捨ててでもいい、という人たちがイエスの死後、空白の二ヶ月の後に弟子を始め、次から次へと現れてくるんです。迫害され、拷問にかけられ、はりつけにされても、その人たちはどんどん増えていくんです。ついにローマ帝国中に広がり、キリスト教は国教となりました。これは何かとんでもないことがなければ考えられないことです。聖書が語るイエスの復活は、事実なんです。
復活が事実なら、人間は死んで終わりではない
さて、イエスの存在、十字架の死、そして復活は、事実だと言いました。まだ聖書を信じておられない方には、実にバカバカしい話に聞こえるかもしれません。よくわかります。私自身が、信仰を持つ前、そう考えたからです。
そんなバカバカしいことを信じるのは、知的判断力を麻痺させてむりやり信じ込もうとしているか、どこかに疑いを持っているけれどもそれに目を向けようとしていないか、そのどちらかに決まっている、と考えていました。無理もない話です。日本人の常識からはとても考えられません。これが事実ではなく、単なる宗教家の思い込みであるなら、この話はここでおしまいです。
しかし本当に事実であるなら、話は大きく変わってきます。イエスは聖書のいうとおり神であり、十字架にかかり死んだけれども復活し、いま天で生きておられる。人間は死んで終わりではなく、死んだ後があり、天国は存在するということです。
ペテロが体験したイエス
人間にとって最も忌み嫌うものは何でしょうか。死ですね。しかし、この福音の事実は、死の意味を根底からひっくり返すんです。では、本当に聖書が語ることは真実で、信じるに値するのか、信じて大丈夫なのか、ここが気になるポイントです。
あるときイエス・キリストがガリラヤ湖(イスラエル北部にある湖)畔で、群集が押し迫ってきたので、小舟で少し沖に出てから話を始められたんです。その小舟は、漁師ペテロの持ち物でした。イエスの話が終わったとき、イエスはペテロにこう切り出されたんです。
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」
これには正直、ペテロも驚きました。ついさっきまで漁をしていても、なにもとれなかったんです。こんなに日も高くなって、どうして魚がとれるはずがありましょうか。それに、網も掃除してしまったし。確かにイエス様の話は素晴らしいです。でも、私は漁師です。漁にかけては私のほうがよく知っています。いま網をおろしても、網が汚れるだけじゃないですか。魚なんかとれませんよ。ペテロは心でそう考えたんではないでしょうか。しかし、彼はイエスにこう言いました。
「先生。……おことばどおり、網をおろしてみましょう。」
そしてその通りにすると、なんとおびただしい魚が入り、網が破れそうになったっていうんですね。ペテロが、イエスの力を自分自身で味わった初めての体験でした。
疑いは信じることのスタート
ペテロはおそらく心の中で、イエスのことばを半信半疑で聞いたと思います。つまり、心に疑いがあったんですね。実はこの疑いこそは、信じるための大切なきっかけなんです。
なぜなら、疑いが生まれるからこそ、その次に「信じるか信じないか」という選択が必要になります。そして考え、選んで、決断して、行動する。疑いも何もないときは、ただ言われるままをするに過ぎないんです。それは信じることでも信じないことでもどちらでもありません。いわば、ロボットのようなものです。信じるということは疑いから出発します。また、信じた結果が見えていないからこそ、信じるか信じないかを決めなければならないんですね。
もし、網をおろした結果が大漁だ、とわかっていたら全員が同じ選択をするでしょう。それは信じるということではありません。信じることは疑いから出発し、結果が見えないからこそ信じることに意味があるのです。